ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

旧満州での思い出(5) 満州脱出

2008-04-13 21:44:43 | 旧満州の思い出
旧満州の思い出を体系的に語れるようになるのには、かなり時間がかかりそうである。それで、ともかく思い出す度に、断片的にでも書きとめておくことにする。将来それをまとめて秩序だてることがあるかも知れない。
それで、今日は一寸したことがあって、長春(旧新京)を脱出した日のことを思い出したので書きとめておくことにする。
「内地」では連日、アメリカの飛行機が空襲をしている頃、わたしたちが住んでいた満州では、空襲もなく、戦争という緊迫した雰囲気は全くといっていいほどなかったように思う。もちろん、それは当時小学3年生のわたしの感覚である。確か、その頃、内地で驚異的な「新型爆弾」が投下され、甚大な被害があったという噂は耳にしていたように思う。後に知ったことではあるが、それが広島への原爆投下であった。とくに、母親は助産婦をしていた関係で、関東軍の家庭に出入りをしていたので、そのような情報は割合早く耳に入っていた。父は、1年前の3月に現地召集ということで「南方方面」に送られており、母は当時10歳であるわたしに、何か重大な決断を要するときには必ず相談をしていた。
昭和20年8月9日の夕方、母は顔色を変えて仕事先から帰宅し、すぐに持てるだけ貴重品や衣服をもって、出かける準備をしなさいと、わたしたち3人の子どもに命令し、真夏であるにもかかわらず、真冬のように何枚も重ね着をし、リックに入るだけのものを詰め込んで、新京脱出の準備をし、知らせが入るのを待っていた。
母は外出先で、ソ連軍が国境を越えて満州に侵入してきたとのことである。このニュースは、関東軍の家族にだけ密かに伝えられ、わたしの家族は関東軍とは関係はなかったが、何しろ関東軍の軍属の留守宅には妊婦や産婦が多くおり、医療関係者はほとんどいないということで、助産婦をしていた母に声がかかり、一緒に新京を脱出する手配になったとのことである。この情報が関係者以外にもれたら、大変なパニックになるということで、一般の在満邦人には秘密にされ、関東軍関係者だけが「特権的に逃げる」ということであった。要するに関東軍は軍の関係者だけを危険な満州から脱出させ、一般人は見捨てたということである。何しろ一刻も猶予のない状況で、母は関東軍の家族と行動を共にしたのであり、母はそのことについて、死ぬまで「あの判断は正しかったのか」と悩んでいた。
家族はマーヤンにも詳しいことは話さず、ただ、しばらく留守をするが、もし帰ってくることがなかったら、残っている物は全部あげると言っていたようである。マーヤンもすぐに事情を呑み込み、本当に困ったことがあったら、命をかけてでもわたしたちの家族を守る、と涙ながらに話し、脱出の準備を手伝ってくれた。
その夜、周りが暗くなった頃を見計らって、伝達が入り、わたしたちは新京駅の裏に密かに集合した。満鉄では特別便が回されるとのことであった、何しろすべては秘密裏に進行された。わたしたち子どもにも「音を出さない」、「泣かない」、「大人の命令には一度で従う」ということが厳しく言い渡された。
かなり長い時間であったと思う。夜中もかなり過ぎた頃、密かに伝令があり、わたしたちは駅のプラットホームに入った。そこには無蓋の貨物列車があり、わたしたちはそれに乗り込んだ。まさにすし詰めである。その上、わたしたちの頭の上にはネットが掛けられ、その上に干し草で覆われた。満州といえども真夏のことで、息をすることもできないほどの状況であったが、誰もが状況をよく知っており、文句をいうものは誰もいなかった。やがて、列車は静かに動き出したが、少し動いては停まり、また動くという調子であった。何しろ、時刻表にない秘密列車である。どこに罠が仕掛けられているのか分からない。実は、これが「戦争」ということを身体で感じた初めての経験であった。
列車は何時間もその調子で走り、明けがた近くになって、やっと満州の国境を脱出し朝鮮に入った。夢の中で、「鴨緑江」とか「新義洲」とかという満州と朝鮮との国境を示す地名を聞いたような気がする。大人たちの間には、危険地域をやっと脱出したという安堵の気分が漂っていた。しかし、この気分の背後には、朝鮮は日本の領土であるという当時の政治的状況を背後にしたものであった。もちろん、このことは成人してから後に分かったことであるが。当時、わたしは9歳2ヶ月、母は37歳、弟正道は7歳、知明は3歳のお誕生日を3週間後に迎える年齢であった。
<覚え書き:この日の出来事については半藤一利著「ソ連が満州に侵攻した夏」(文春文庫)に詳しい描かれている。>

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