聖霊降臨日を覚えてまとめてみました。
聖霊についての一試論
○人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。マタイ12:32
○人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。マルコ3:28-29
○人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。ルカ12:10
これらの言葉を糸口にして、聖霊について考えをまとめてみる。これらの言葉の元になった言葉は初期の教会で単独で流布していたのであろうと推測される。聖霊に対する冒涜は永遠に赦されないということはかなり厳しい。しかし、ここに初期の信徒たちが聖霊とは何かということを考えた核心部分が秘められているように思う。
神学において、神についての議論、イエスについての議論はほとんどこれ以上論じるべき点がないほど論じ尽くされてきた感があるが聖霊論については多くの議論を残したままである。議論を広げ出すとほとんど無限に広がり、深めようとすると底のない池を手探りで搔き回すようなもので泥沼にめり込んでしまう。結論として聖霊についてはただ問題点をいろいろと羅列するだけで「論」にならないように思われる。従って聖霊については体験的に、断片的にしか語れないように思われる。
そういう言い方が許されるかどうか分からないが一応、神も、イエスもいわば対象化可能な神、人間にとって「外なる神」であるが、聖霊とは「内なる神」、対象化不能の神である、と思う。
(1)聖霊とは、私の内にあって、私でないもの。それをパウロは「私の内に宿る霊」という。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(1コリント6:19)。私の内には神から頂いた聖霊が宿り、私自身は聖霊の宿る神殿である。これがすべてのキリスト者の体験的事実であり、聖霊に関する最も基本的なありようである。
(2)この聖霊は私の内に「言葉」として存在している。その言葉は「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書き付けられ」(2コリント3:3)ている。さらにパウロは「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(コロサイ3:16)と勧めている。
(3)この言葉が必要なときに、語るべき言葉として外に出てくる(マタイ10:19、マルコ13:11、ルカ11:13)。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(マルコ13:11)。
さて以上の3点が聖霊についての私自身の体験談である。聖霊の語りを私たちは私自身の内なる言葉として聞く。従って聖霊の言葉に逆らうこと、あるいは無視すること、あるいは冒涜することとは、私自身の内なる言葉に逆らうことであり、あるいは聖霊を冒涜することは私自身を冒涜することになる。
ここで問題になる点は、内なる言葉としての聖霊とは良心と同じこと、良心そのものではなかろうかという疑問が生じる。確かに聖霊の言葉と良心の言葉とはほとんど重なっており、差異はない。パウロもロマ人への手紙において「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」(ロマ2:14-15)という。ここでは「良心」を律法を対比して論じている。私たちの議論に置き換えると「聖霊の言葉」がなくても人間に自然に、生得的に与えられている良心が同じ役割を担っているという。問題は「聖霊を受ける」ということ、聖霊経験以前の私と聖霊経験後の私との違いである。確かに聖霊降臨(ペンテコステ)以前の弟子たちと聖霊経験後の使徒たちの違いは明白である(使徒2:38、4:8、13、19、31)。
この点についてパウロは次のように論じる。聖霊は「私たちの霊と一緒になって」私たちに語りかける(ロマ8:16、9:1)。ここでは「私たちの霊」と「良心」という言葉がほとんど同意語として用いられている。人間が人間であるのは神の息が人間に吹き込まれたときである(創世記2:7)。この神話は神話を超えて人間の深い真実を語り続けている。この「神の息」こそ良心に他ならない。人間は生まれながらに良心を持っている。ただこの良心の声は弱く、か細い。人間を取り巻く欲望の雑音の中でかき消されてしまう。人間の歴史は、そして私の個人史も、良心と欲望との葛藤の連続であった。パウロ自身もその葛藤を次のように述べている。「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ロマ7:21-14)。パウロにおいても、また私においても、また人類史においても、聖霊が私たちの内に宿ることによって私の良心をきよめ、強化する(1テモテ1:19、2テモテ1:3、ヘブライ9:14)。
もう一点、内なる言葉としての聖霊について、パウロは「キリストの言葉」(コロサイ3:16)といい、マタイは「父の霊」(マタイ10:19)といい、マルコは「聖霊の言葉」という。これこそ彼らが内なる言葉をそのように体験したということなのであろう。
私自身は聖霊による「内なる言葉」とは聖書の言葉だと思っている。もちろん、聖書の言葉に限定する必要はないが、一種の言葉の貯金として聖書の言葉がある。心の中に聖書の言葉を蓄えておくと、不思議なことに、必要なときに最も相応しい言葉として聖書の言葉が甦ってくる。空っぽの墓の中で、婦人たちはイエスの言葉を思い出した(ルカ24:8)その意味では聖霊体験とは「御言葉体験」であるとも言える。
聖霊についての一試論
○人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。マタイ12:32
○人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。マルコ3:28-29
○人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。ルカ12:10
これらの言葉を糸口にして、聖霊について考えをまとめてみる。これらの言葉の元になった言葉は初期の教会で単独で流布していたのであろうと推測される。聖霊に対する冒涜は永遠に赦されないということはかなり厳しい。しかし、ここに初期の信徒たちが聖霊とは何かということを考えた核心部分が秘められているように思う。
神学において、神についての議論、イエスについての議論はほとんどこれ以上論じるべき点がないほど論じ尽くされてきた感があるが聖霊論については多くの議論を残したままである。議論を広げ出すとほとんど無限に広がり、深めようとすると底のない池を手探りで搔き回すようなもので泥沼にめり込んでしまう。結論として聖霊についてはただ問題点をいろいろと羅列するだけで「論」にならないように思われる。従って聖霊については体験的に、断片的にしか語れないように思われる。
そういう言い方が許されるかどうか分からないが一応、神も、イエスもいわば対象化可能な神、人間にとって「外なる神」であるが、聖霊とは「内なる神」、対象化不能の神である、と思う。
(1)聖霊とは、私の内にあって、私でないもの。それをパウロは「私の内に宿る霊」という。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(1コリント6:19)。私の内には神から頂いた聖霊が宿り、私自身は聖霊の宿る神殿である。これがすべてのキリスト者の体験的事実であり、聖霊に関する最も基本的なありようである。
(2)この聖霊は私の内に「言葉」として存在している。その言葉は「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書き付けられ」(2コリント3:3)ている。さらにパウロは「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(コロサイ3:16)と勧めている。
(3)この言葉が必要なときに、語るべき言葉として外に出てくる(マタイ10:19、マルコ13:11、ルカ11:13)。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(マルコ13:11)。
さて以上の3点が聖霊についての私自身の体験談である。聖霊の語りを私たちは私自身の内なる言葉として聞く。従って聖霊の言葉に逆らうこと、あるいは無視すること、あるいは冒涜することとは、私自身の内なる言葉に逆らうことであり、あるいは聖霊を冒涜することは私自身を冒涜することになる。
ここで問題になる点は、内なる言葉としての聖霊とは良心と同じこと、良心そのものではなかろうかという疑問が生じる。確かに聖霊の言葉と良心の言葉とはほとんど重なっており、差異はない。パウロもロマ人への手紙において「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」(ロマ2:14-15)という。ここでは「良心」を律法を対比して論じている。私たちの議論に置き換えると「聖霊の言葉」がなくても人間に自然に、生得的に与えられている良心が同じ役割を担っているという。問題は「聖霊を受ける」ということ、聖霊経験以前の私と聖霊経験後の私との違いである。確かに聖霊降臨(ペンテコステ)以前の弟子たちと聖霊経験後の使徒たちの違いは明白である(使徒2:38、4:8、13、19、31)。
この点についてパウロは次のように論じる。聖霊は「私たちの霊と一緒になって」私たちに語りかける(ロマ8:16、9:1)。ここでは「私たちの霊」と「良心」という言葉がほとんど同意語として用いられている。人間が人間であるのは神の息が人間に吹き込まれたときである(創世記2:7)。この神話は神話を超えて人間の深い真実を語り続けている。この「神の息」こそ良心に他ならない。人間は生まれながらに良心を持っている。ただこの良心の声は弱く、か細い。人間を取り巻く欲望の雑音の中でかき消されてしまう。人間の歴史は、そして私の個人史も、良心と欲望との葛藤の連続であった。パウロ自身もその葛藤を次のように述べている。「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ロマ7:21-14)。パウロにおいても、また私においても、また人類史においても、聖霊が私たちの内に宿ることによって私の良心をきよめ、強化する(1テモテ1:19、2テモテ1:3、ヘブライ9:14)。
もう一点、内なる言葉としての聖霊について、パウロは「キリストの言葉」(コロサイ3:16)といい、マタイは「父の霊」(マタイ10:19)といい、マルコは「聖霊の言葉」という。これこそ彼らが内なる言葉をそのように体験したということなのであろう。
私自身は聖霊による「内なる言葉」とは聖書の言葉だと思っている。もちろん、聖書の言葉に限定する必要はないが、一種の言葉の貯金として聖書の言葉がある。心の中に聖書の言葉を蓄えておくと、不思議なことに、必要なときに最も相応しい言葉として聖書の言葉が甦ってくる。空っぽの墓の中で、婦人たちはイエスの言葉を思い出した(ルカ24:8)その意味では聖霊体験とは「御言葉体験」であるとも言える。