ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 05/31

2013-06-01 06:22:41 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。「葉っぱのフレディ」(みらい訳)を原文直訳(服部順治)と対比して読み、異同を分析検討した。面白い。肝心の部分がかなり違う。みらい氏の解釈がかなり濃厚だ。原文なら十分理解出来る。日本人と西洋人の死生観の違いか。日野原先生はみらい訳にのめり込みすぎだ。「刑事110キロ」を見て9時過ぎに就寝。5時起床。美しい朝焼けに見とれる。体調快調、チュン、チュン。

金丸 勝彦さん、野間 悦三さん、岡 輝美さん、他32人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明 一言だけ付け加えさせてください。「葉っぱのフレディ」が原著者の文章のままに翻訳されていたら、一般の日本人には受け入れられたかどうか疑問であるし、あれだけの評判にはならなかったでしょう。

萩野 秀子 おはようございます。良き日となりますように。お祈り致します。暑いですが熱中症に気をつけて頑張って下さい。

水草 修治 この本、それほど話題になっていたのですね。知りませんでした。原文から、どうみても離れすぎですねえ。かぎのことばであると思われる、人生の目的とか存在理由とか、すっとばしてしまっているし。
 それはそれとして、原作のような死生観は聖書のそれでなく、ストア派的汎神論ですね。

加藤 博子 今、天草にいます。
posted at 05:17:30

今日の名言:RT @meigenbot:
人生は、人間が作った運河のように、決まりきった水路だけを流れるものではない。 (インドの詩人)
<一言>何度読み返しても、良い言葉である。単純ではあるが奥が深い。一言付け加えることが失礼である。

金丸 勝彦さん、大野 泰男さん、塩谷 常吉さん、他27人が「いいね!」と言っています。
posted at 06:13:36

「昨日のツイート 05/30」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/8003ca671b3e9251b53130e9cd1b500…
posted at 08:14:29

今朝の朝焼け。1枚目は午前5時ジャスト、2枚目は5時5分、3枚目はiPodで、4枚目は5時30分。 (写真4枚)

玉城 豊さん、金丸 勝彦さん、大野 泰男さん、他42人が「いいね!」と言っています。

細野 清明 良い色合いですねぇ~\(^o^)/ 此方も、bagus!

細野 洋子 きれい!

山田 裕史 · 早起きはいいですね、、

大脇 友弘 美しい朝焼けだったようですね。 今朝に限って6時過ぎに起きて、…損しました!

文屋 善明 すごかったですよ。特に5時7分前から5時7分までの15分はスペクタクルドラマでした。

金丸 勝彦 きれいですね!

日々の聖句2013 05月31日(金)
わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。(1代29:13)
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。 (コロサイ2:6)
私の黙想:
神殿建築の準備が整い、建築工事そのものを息子ソロモンに託すに際してのダビデの演説。そのときのダビデの喜びと無念さとが伝わってくる。人生の終わりとはそういうものではないか。事業、研究、宣教、いずれの分野においても、全て完結して人生を終えるということはあり得ない。事業が大きければ大きいほど、次の世代に託すべきものが大きい。そこには当然無念さが残る。しかし、ここで重要な点は自分自身がし残した課題を託すのは、息子ソロモンにではなく神である。全てを神にゆだねて人生を終える。

金丸 勝彦さん、塩谷 常吉さん、野間 悦三さん、他25人が「いいね!」と言っています。

お目覚めの花。「ねぇ、早く出してよ」「バラのシーズンが終わってしまうじゃない」「えーい、面倒だ4花一緒に出してしまえ」。 (写真4枚)

キタモト ユウコさん、金丸 勝彦さん、大野 泰男さん、他36人が「いいね!」と言っています。

細野 清明 Selamat pagi (^_-) 何時もながら、Bagus! 今日も、笑顔で、頑張っぺし!

細野 洋子 おはようございます。今日も、笑顔で、元気に頑張ります。

Yasuo Hirose 私の名前にも薔薇が隠れています。

文屋 善明 洋子さん、行ってらっしゃーい。英語の単語を忘れても、笑顔を忘れずに!

文屋 善明 Yasuo, Hi ! rose.

文屋 善明さんが野間 大路さんのリンクをシェアしました。

こあらブログ応援しています。

風疹流行中! 兵庫県の予防接種助成を憂う
happy.ap.teacup.com
野間こどもクリニック院長のブログです。 こあらレターの進化版にしたいと思います。 盛り上がると嬉しいなぁ・・・

万代 麻奈さん、上野 博志さん、望月 克仁さん、他3人が「いいね!」と言っています。

萩野 秀子 上の子供も去年高校三年生だったので接種券があったので受けました。うつしてはいけないし大分前に兵庫県内の大学でこの時期に風疹になり休講になったり、実習が延期になりました。特に教育、医療系学部は人と接する学部実習があるので予防接種は義務付けていて接種済みの証明書も入学の時に提出させられます。受けていない場合は参加させて貰えません.

堀 光雄に投稿しました文屋 善明
文屋先生、お誕生日おめでとうございます。まだまだ、お元気のようですね。ご活躍をお祈り致します。堀光雄

「葉っぱのフレディ」をめぐって原著者の死生観

大雑把ですが、下記のようにまとめてみました。
原著者の原文が手元になかったので、「原文の忠実な翻訳」という触れ込みの服部順治氏の翻訳と、世間に流通している「みらい なな訳」とを比較いたしました。参照:服部順治氏による翻訳( http://nvc.halsnet.com/jhattori/Spirits/FreddyTheLeaf.htm  2008.9.21)

(1)
いきなり緑色のモミジの葉っぱと共に「春が過ぎて夏が来ました」という文章で始まる。続いて、葉っぱのフレディの生い立ちや友だちが簡単に語られる。
フレディは「葉っぱに生まれてよかったな」と呟く。
夏の公園、フレディたちは人々のために役に立つということに悦びを感じる。
秋の紅葉の季節を迎え、葉っぱたちはそれぞれに変色する。やがて秋風が吹き、落葉が始まる。葉っぱたちは恐がり緊張する。ダニエルは落葉を「引越」だと説明する。葉っぱたちは「引越」とは「死ぬこと」だと感じている。

ここで、みらい訳は重要な部分に変更を加えている。
服部訳
ダニエルは語る。「葉っぱのぼくらがすみかを変えるときがきたんだよ。なかにはこれを『葉っぱが死ぬときだ』なんていう人もいるけどね」。「ぼくたちは、みんな死ぬの」とフレディはもうビックリ仰天。「そうだよ」とダニエルが答える。「どんなものでも、かならず死ぬんだ。どんなに大きくても小さくても。どんなに強くても弱くてもね。ぼくらはまず、自分のつとめをはたす。お日さまの光をあびて、お月さまの光につつまれる。風にふかれて、雨に洗われる。みんなでダンスをおぼえて、みんなで笑う。そして死んでいくんだよ」。
この部分を翻訳者は次のように翻訳している。
「みんな引っ越しをするときがきたんだよ。とうとう冬が来たんだ。ぼくたちはひとり残らずここからいなくなるんだ」。フレディは悲しくなりました。ここはフレディにとって居心地の良い夢のような場所だったからです。「ぼくもここからいなくなるの」。「そうだよ、ぼくたちは葉っぱに生まれて葉っぱの仕事を全部やった。太陽や月から光をもらい、雨や風に励まされて木のためにも他人のためにも立派に役割を果たしたのさ。だから、引っ越すのだよ」とダニエルは答えました。
この変更をどう読み取るのか。

(2)
次に全てのものは「変化する(=死ぬ)」という議論の中で、フレディはダニエルに問う。「この木も死ぬのか」。ダニエルは「いつかは死ぬさ。でも『いのち』は永遠に生きているのだよ」と答える。このダニエルの答えの部分の原文は次のようになっている。
「いつかはね。 でも、 この木よりもっと強いものがあるよ。それはいのちなんだ。 いのちは永遠につづくんだ」。
原著者の思想は明白である。大きな木に象徴される「いのち」には寿命があるが、「もっと強いもの」があり、それが「永遠のいのち」であるという。
この絵本の最も重要な問いは「葉っぱも死ぬ、木も死ぬ。そうなると、春に生まれて冬に死んでしまうフレディの一生には、どういう意味があるというのでしょう」である。
原著者はその問いに対してダニエルに以下のように答えさせている。
「お日さまやお月さまだって、生まれてきてもいつかは消えていかなくっちゃならないんだ。 みんなで一緒に過ごす幸せな一時だってそうなんだ。木かげや、お年よりや、子供たちだって、そうなんだ。秋のあの鮮やかな色どりだってそうなんだ。春、夏、秋、冬の季節だって、そうなんだ。どれもこれも、昔から全部、ずっとそうだったんだ。さあ、これだけいうともう分かっただろう」。これがダニエルの最後の台詞である。
この部分をみらい訳は、次のように書き改めている。
「ぼくらは春から冬まで間、本当によく働いたし、よく遊んだんだね。まわりにつきや太陽や星がいた。雨や風もいた。人間に木かげを作ったり、秋には鮮やかに紅葉してみんなの目を楽しませたりもしたよね。それはどんなに楽しかったことだろう。それはどんなに幸せなことだったろう」。この絵本の根本的な問いに対する答えがこれだけ違う。
原著者の答えは明らかに、生まれてきたものは全て消滅する。それが答えの全てである。それに対してみらい訳では、生きていたことが楽しかったか、誰かの役に立ったか、楽しかったかということに意味を見出そうとしている。原著者はその種の意味を求めること自体を拒否しているかのようである。

(3)
この原著者と翻訳者の思想のちがいは、木の枝から離れて地上に落下する際に見た「木の全体像」についての感想文に現れる。
「落ちる途中でフレディは初めて見たのです。自分が生まれ育った木の、そのまるごとの姿を。なんと強くて丈夫そうなのでしょう。「これならきっと、うんと長生きしてくれるぞ」、フレディはそう思いました。そして、「ぼくはやっぱりこの木の一部分だったんだ」。そうわかると、 誇らしく思えてきたのでした。
この部分を翻訳者は次のように訳している。
「その時初めてフレディは木の全体の姿を見ました。なんてがっちりした、逞しい木なのでしょう。これならいつまでも生き続けるにちがいありません。フレディはダニエルから聞いた 『いのち』という言葉を思い出していました。『いのち』というのは永遠に生きているのだということでした。」
翻訳者においてはこの木そのものが「永遠の命」であるが、原著者においてはそうではない。この木は強うそうで丈夫そうだから「長生きするぞ」と思い、その木の一部であったことに誇りを感じる。つまりフレディは自分の生涯が他人に役立ったのかどうか、この木の成長に貢献できたのかどうかを問うが木それ自体の永遠性を問題にしていない。この違いは決して小さくない。いのちを巡る「神観」の違いが明瞭である。

(4)
みらい訳で読んでいる読者には、最後の段落「フレディは知らなかったのですが」以下の文章の意味をどれだけ読み取っているのであろうか。次のように書かれている。
「冬が終わると春が来て、雪がとけ水になり、枯れ葉のフレディはその水にまじり、土に溶けこんで木を育てる力になるのです。フレディは生まれたところに帰ったのでした。
『いのち』は土や根や木の中の目には見えないところで新しい葉っぱを生み出そうと準備をしています。大自然の設計図は寸分の狂いもなく『いのち』を変化させつづけているのです。」
原著者の最後段落は以下の通りである。
「ところでフレディは、冬のあとには春がきて、雪がとけると水になるなんて、ちっとも知らなかったのでした。また、まったくの役立たずのようにみえる自分の干涸らびた身体でも、やがては土に帰って水にとけ、自分が生まれ育ったあの木をいっそう丈夫にさせる役目を果たすのに、そんなこともフレディはまったく知りませんでした。ましてや、自分がいた木や地面の中では、春になったら若葉をいっぱい芽ぶかせる準備がすっかり整っていて、冬の間じゅうじっと静かに出番をまっていたなんて、フレディにはとてもわかりっこなかったのでした。」
みらい訳と原文と対比してほとんど違いがないように見える。目立つ違いは「フレディは生まれたところに帰ってきたのです」という一文である。この一文が入ることによって、フレディの知らなかったことがこれに規定されてしまう。むしろ原文では、フレディの人生そのものがより大きな「意志」のもとに置かれていたということを知らなかったのである。私たちの生も死も、私たちが知り尽くせない大きな力のもとにある。その大きな力こそ『いのち』である。

(5)
そう言えば、この絵本でもう一つわたしたちが知り得ないことを述べていた。残念ながら、この部分はみらい訳ではカットされている。
フレディがダニエルに「ぼくたちは死んだらどこに行くのかな」と問い、ダニエルが次のように答える。
「はっきりしたことはだれにもわからないんだよ。 なにしろこれは昔から、 とっても大きな謎なんだから」。さらに、この問答は次のように展開する。
「ぼくたちは、春になったらまたここへもどってこれるのかな」。「ぼくらはだめかもしれないね。でも、いのちはまたもどってくるだろう」。
この最後の「ぼくらは駄目かも知れないが、『いのち』は戻ってくる」という言葉は意味深長である。

玉城 豊さん、北村 良輔さん、寺田 由志子さん、他25人が「いいね!」と言っています。

重田 美穂 つまり「一粒の麦落ちて死なずば」ですよね。

去る4月7日(聖サビエル誕生日)に完工間近いザビエル聖堂において「続・聖堂再生プロジェクト」の終了式が行われました。11月下旬には聖堂として発足し、礼拝も執行される予定です。切り抜きは地元紙「むなかたタウンプレス」に掲載されたニュースです。右は記念品です。聖堂の絵が描かれた暖かさを感じる湯飲みです。大切に使わせて頂きます。


いいね! · · 宣伝する · シェア
北村 良輔さん、金井 望さん、金丸 勝彦さん、他20人が「いいね!」と言っています。

萩野 秀子 町全体がキリスト教に興味をもってもらう良き機会が与えられて協力する素晴らしいですね。おめでとうございます。
20時間前 (携帯より) · いいね! · 1

清水 晴好 38年ほど前に鹿児島でザビエル教会に行きました。あれが宗像に移築されたんですね。不思議な気持ちです。

文屋 善明さんが大脇 友弘さんの写真をシェアしました。
13時間前
グローバル企業に正面から「お面」。見事な一本。さすがに武道家。
★武道家・内田樹氏の内田節!一読お勧め。

■「無国籍企業」のために国民に犠牲強いるのは筋違いです
神戸女学院大学名誉教授 内田 樹さんに聞く(しんぶん赤旗)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-05-31/2013053103_02_1.html

■「国民国家としての日本」が解体過程に入った(朝日新聞の「オピニオン」欄に寄稿)
http://blog.tatsuru.com/2013/05/08_1230.php

玉城 豊さん、寺田 由志子さん、望月 克仁さん、他10人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明 注意:内田先生は「グローバル企業」という表現を避けて「無国籍企業」と言っています。そうなんです。グローバル化した企業は「無国籍企業」なんです。「日本の企業」のような名前を付けたり、アメリカの企業のような名前を付けていても「無国籍」なんです。その点をしっかり認識しましょう。

玉城 豊 「赤旗」に出ても、ちゃんと共産党を批判するところがいい。

北九州市若松区・洞海湾を見下ろす高塔山公園 (写真46枚)
今年の紫陽花の咲き具合を見に出かけました。まだ、チラホラです。6月の半ば頃がクライマックスかな?

Su Suさん、Naomi Jambunathanさん、朴 栄子さん、他32人が「いいね!」と言っています。

藤井 衞 昭和46年から昭和55年まで北九州市で過ごしました。月日の経つにつれ自然環境保全が叫ばれる中で、随分と変わりましたね。近況を知ることができありがとうございました

キタモト ユウコ 綺麗☆♪

田中 恵子に投稿しました文屋 善明
文屋先生、6月9日(土)兄弟団福岡教会(福永師)でコンサートさせていただきます。
お近くでしたらぜひ、神戸のおけいはんを見に!いらしてくださいませ。

<補遺>特になし。

付録
小池 俊樹
今日は朝から満を持してサグラダファミリア行ってきた。
これはすごいわ。ほんまにすごい。
普段からいろんな教会見てきたけどレベルが違う。もちろん大きさ、規模が違う。色と空気が違う。感動の総量が違う。

「教会はそのものが聖書で、文字の読めない人も教会やそこにある絵などを見れば信仰が深められるようになってる」ってどっかで聞いたけど、サグラダファミリアはまさにそれ。

とてもカトリックらしくて、偶像そのものの中にいるような気がした。
そこにいるだけで神は偉大だと感じさせるような空気感の作り方は素晴らしかった。

特に感動したのは祭壇の上の天窓だった。祭壇の上にはイエスの像が浮いていて、空から光が差し込むとまさに聖なる光が彼を照らしているように見える。

ガウディが自然の光を上手く使うのは「カサ・バトリョ」で既に見たものの、この天窓は素晴らしい仕組みだった。

また「カサ・バトリョ」では全てが曲線で構成されていたが、こちらは大半が計算された直線だった。なんせ石だから。

石の切り方と窓の作り方によっては、石が薄くキラキラと光って、まるで薄い紙のように見える場所もあった。

ちなみに塔の上まで登ったら、ちょうど唯一の日本人技師の人がてっぺんでスマフォいじってた。


あとはピカソ美術館にもいってきた。絵の下手さが度を超えて芸術になってるんだと思ってたけど、若い頃の絵はめちゃくちゃ写実的で生き生きしてた。

一昨日ダリ美術館に行ったのだけれど、僕はダリの方が好みだった。ピカソの油絵は色が混じりあってて、単純そうに見えて複雑だったから。

ダリはインクのシミや落書きのような単純な線に見えて、それがまさにものの形や影を正確に表してるのが芸術的で感動した。

そんなピカソの絵だったが2つだけ気に入ったものがあった。日付を見るとちょうど1957年の10月2日の絵と3日の絵だった。
どうやらこの時期、ピカソはベラスケスの絵の研究をしていたらしい。
ピカソにそんな影響を与えたベラスケスの絵を見てみる価値があると感じた。

最新の画像もっと見る