ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

パン屑   コヘレトの言葉1:2

2007-10-26 11:34:35 | バン屑
昨日、加藤周一氏の文章を取り上げた。その際、加藤氏が引用した聖書の言葉を改めて読み直し、つまらない疑問を抱いた。「空の空 空の空なる哉(かな) 都(すべ)て空なり」。それは本当につまらない疑問なので、見過ごしてもどうって言うことのないような疑問である。それは、ここで「すべて」という言葉の漢字に「都」という字をあてていることである。おかしいと思って、もう一度文語訳聖書で確かめてみると、確かに「都」となっている。この「都」とはどういう意味であろう。ヘブライ語にあたっても、コル(kol)で特別な意味もなさそうであるが、一寸気になることは、このコルという単語は抽象的な「すべて」、英語で言うと単なる「all」ではなく、すべての物、とかすべての民族とか、具体的な存在と結びついて用いられる「すべて」であるらしい。少なくともそういうニュアンスで用いられている場合が多い。しかし、ここではあくまでもコルという単語は単独で用いられているので、ほとんどの現代語訳聖書では「すべて」と訳されている。ただ、口語訳聖書では「いっさい」と訳されており、一寸ニュアンスが異なる程度のことである。興味深い翻訳では英語の「Good News Bible」でこの部分を「It is useless,useless, said the Phirosopher. Life is useless,all useless.」と訳している。空という言葉を「useless」と訳しているのもさることながら、それよりも「Life」という言葉を挿入してしているのも注意をひく。
むしろ、ここでのわたしのつまらない疑問は日本語の問題である。「都て」を「すべて」と読ませることができるのか。逆に「すべて」という言葉に「都て」という漢字をあてることができるのか。まず、例によって「広辞苑」にあたったが、何の収穫もなかった。次ぎに手元にある新漢和中辞典を見てもあまり収穫はなかったが、ただ、「都合(つごう)」という単語の用法に「すべて」とか「しめて」とか、「総計」という意味があることを発見した。そこで、今度は例の広辞苑に戻り、「都合」を調べてみると、出てきた出て来た。わたしは思わず心の中で「ユウレイカ(我発見せり)」と叫んでいた。そこにあるではないか。見出し語の下に括弧付で(「都」はすべての意)と。文語訳聖書の翻訳者は偉い。まともにヘブライ語もできなかったに違いないが、この短い文章を透かし見て、これは単純な「すべて」ではなく、あらゆる存在をひっくるめての「都て(すべて)」である。ここに含まれる統べて、太陽も、月も、山も、川も、海も、地球も、そこに住む魚も、虫けらも、そして人間もすべてひっくるめてすべては消滅する時が来る。無が無であるというニヒリズムではなく、すべての有が無になるというニヒリズムである。恐ろしいニヒリズムである。ニヒリズムもここまで徹すれば明るい。
そこで、もう一つ疑問。何故、「都」が「すべて」を意味するのだろうか。これに答えるのは広辞苑の仕事ではない。そこで、登場するのが漢字そのものの権威者白川靜先生。先生の「常用字解」(平凡社)によると、「都は人の集まるところであるから、『すべて』の意味に用いる」とある。これで、疑問は完全に解答を得た。

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