ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

<パン屑> ロマ書5:16

2008-10-22 15:33:49 | バン屑
裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。ロマ5:16

裁判所での判決の場合、罪が一つでもあれば有罪判決が下されますが、恵みが働く場面では、どんなに多くの罪があっても無罪となる、とパウロは言います。理屈としては単純明快のように見えますが、裁判所と「恵みが働く場所」とを対比すること自体に無理があるように思います。問題はこれらを対比させている文脈です。ここでは、罪を罪と判定すべき場面と、犯罪性を問わない場面とが対比されています。
先日、面白い体験をしました。わたしが運転している車が、横道から飛び出してきた車に当てられました。こちらはT字路の直線を通過中で、あちらは一旦停止の標識があり、道路ミラーもある道から、一旦停止をしないで、飛び出してきたので、当然100%相手側の責任であると思っていました。幸い、どちらもそれほどスピードを出していなかったので、どちらにも怪我はありませんでした。
すぐに、相手の了解を得て、警察に連絡しましたが、まもなく警察が来て、型どおりの交通事故の調書を作くっていました。さて、そこで、両方の言い分を聞いて、どちらがどれだけ悪いのか判定をしてくれるものと思っていましたが、どうもそのような気配がしません。聞いてみると、警察としては、人身事故でない場合、どちらがどれだけ悪いのかということについては「判定しない」ということでした。警察は、交通事故という事実を記録するだけで「善悪を判定しない」というわけです。ただ、「事故証明」を出すための調書であって、車の損傷、修理代等は両者で、あるいは両者の保険会社間でしなさいとのことでした。じゃ、あの一旦停止義務違反はどうなるのか。警察は無視するのか。
当方の保険屋さんに伺ったところ、動いている車同士の事故の場合、責任比率(罪の度合い)は、100対0ということは、あり得ない、ということで、後は保険屋同士の示談に任せてくれということでした。どう考えても、こちらには「落ち度」はありませんが、自動車事故の処理とはそういうものです、と言われ、わたしは、ただ「成る程」と納得するしかないようです。

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