昨日の朝日新聞の「夕陽妄語」の欄で、評論家の加藤周一氏が 「空の空 空の空なる哉(かな) 都(すべ)て空なり」という聖書の言葉を引用して面白いこと(重要なこと)を書いている。読み流してしまうのはもったいないので、記録という意味でも、ここでもう一度取り上げておく。
ここで取り上げられている聖書の言葉は旧約聖書「伝道乃書」の冒頭にある有名な言葉である。もちろんこれは1887年版の文語訳であるが、加藤氏はこの言葉を巡って、堀田善衛氏が書き残した一つのエピソードを紹介している。ある雑誌の編集者がこの言葉を「ソラのソラ」と読んだという。堀田氏は驚きあきれ、この人は知的な雑誌の編集者であるのに、聖書も読んだこともないのかと考えたという。しかし、加藤氏はもう少し冷静で、日本の雑誌の編集者が聖書を読んでいないということにはそれ程驚かないという。それもそうだろう。わたしもそう思う。「しかし」と加藤氏は言葉を継いで、「ソラのソラ」が日本語として意味をなさないのはそれとは別のことである。「空の空」は日本語として十分に明瞭(めいりょう)である。敢(あ)えて「ソラのソラ」と読むのは、日本語の知識に対する驚くべき無知と不注意である、と指摘し、次のように語る。「小学校からの英語教育に力を入れる日本政府にも、幼児からの日本語教育に努力を集中していただきたいと思う。」
加藤氏がこのコラムにおいて語っている主題は、科学と宗教に関する重大な提言であり、この文章の中で「空の空」という言葉はについてのエピソードは漫才用語で言う「つかみ」であるが、文章の達人加藤氏は、それをただの「つかみ」で終わらせないで、文明のもつ根源的な空虚さと「ソラ」によって象徴される無限の有意義性とを切り結ぶ鍵の言葉としている点である。(参照:ブログ「落ち穂拾い」、カテゴリー「講釈」200.7.7.31付) http://blog.goo.ne.jp/ybunya/e/50970c4a3ad81ee87b6e0b324c4bbb01
ここで取り上げられている聖書の言葉は旧約聖書「伝道乃書」の冒頭にある有名な言葉である。もちろんこれは1887年版の文語訳であるが、加藤氏はこの言葉を巡って、堀田善衛氏が書き残した一つのエピソードを紹介している。ある雑誌の編集者がこの言葉を「ソラのソラ」と読んだという。堀田氏は驚きあきれ、この人は知的な雑誌の編集者であるのに、聖書も読んだこともないのかと考えたという。しかし、加藤氏はもう少し冷静で、日本の雑誌の編集者が聖書を読んでいないということにはそれ程驚かないという。それもそうだろう。わたしもそう思う。「しかし」と加藤氏は言葉を継いで、「ソラのソラ」が日本語として意味をなさないのはそれとは別のことである。「空の空」は日本語として十分に明瞭(めいりょう)である。敢(あ)えて「ソラのソラ」と読むのは、日本語の知識に対する驚くべき無知と不注意である、と指摘し、次のように語る。「小学校からの英語教育に力を入れる日本政府にも、幼児からの日本語教育に努力を集中していただきたいと思う。」
加藤氏がこのコラムにおいて語っている主題は、科学と宗教に関する重大な提言であり、この文章の中で「空の空」という言葉はについてのエピソードは漫才用語で言う「つかみ」であるが、文章の達人加藤氏は、それをただの「つかみ」で終わらせないで、文明のもつ根源的な空虚さと「ソラ」によって象徴される無限の有意義性とを切り結ぶ鍵の言葉としている点である。(参照:ブログ「落ち穂拾い」、カテゴリー「講釈」200.7.7.31付) http://blog.goo.ne.jp/ybunya/e/50970c4a3ad81ee87b6e0b324c4bbb01