今週のローズンゲン2013 12/15~12/21
日々の聖句2013 12月15日(日)
主の言葉:わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる。(1サムエル2:30)
思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。(ガラテヤ6:7)
私の黙想:
今日の聖句はイスラエルの民全体に対するヤハウエの言葉ではない。これは堕落した祭司の家族への神の言葉であるということを前提に読まなければならない。祭司職とは(つまり聖職)全家族、全生涯をかけてヤハウエに仕えるために召された存在である。祭司あるいは祭司の家族がヤハウエを「侮る」(口語訳では「卑しめる」、フランシスコ会訳「見くびる」、新改訳「さげすむ」)ならば、全ての特権を剥奪し、「軽んじる」(フランシスコ会訳「軽蔑する」)と言われる。この文章はイスラエル史においては、地方に分散されていた祭儀が中央集権化される宗教環境の転換を示す言葉であろう。そういう読み方も出来るが、ここでは地方祭司エリの家族の問題として読む。
神は「わたしを敬う者を重んじ、わたしを見くびる者を軽蔑する」(フランシスコ会訳)。これは神と人間との一般論ではなく、「私と神」との個別的問題である。私が神を捨てるとき、神も私を捨てる。私が神を蔑ろにするとき、神も私を蔑ろにされる。神に仕えるということはそういうことである。では、神を蔑ろにするとはどういうことだろうか。それは究極的には「神を私の下僕であるかのように、私の願望を押し付ける」ことである。イエスは人生における最大の危機においてゲッセマネの庭で神に祈る。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。これはもう神に頼るしか行き場を失った一人の人間の祈りである。もしイエスの祈りが、ここで終わっていたら、イエスにとって神は「自分のための神」である。このぎりぎりの状況の中で、イエスは「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)と祈る。この最後の一言があるかないかが、神とイエスとの関係の極めどころである。
日々の聖句2013 12月16日(月)
主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。(詩5:13)
信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。(エフェソ6:16)
私の黙想:
信仰は戦いである。そして神の恵の象徴は「盾」として描かれている。盾は常に堅牢で敵からの攻撃を防ぐ防御の武器である。盾によって守られて、その中で安らかに生活することが出来る。その盾が「御旨のままに」では困る。それでは人間は常に「盾」のご機嫌を伺ってビクビク生きなければならなくなる。
口語訳ではこういう言葉は用いられていない。おそらくこれに対応する用語は「恵みを持って」であろう。フランシスコ会訳では「恵みの盾」である。新改訳では「大盾で囲むように愛で囲まれる」と訳している。文語訳でも「盾のごとく恩恵(めぐみ)をもてこれをかこみたまわん」である。
現在の国際関係の中で日本はアメリカの「核の傘」のもとで平和に過ごしていると言う。さらに、アメリカの軍事力によって守られているから経済的繁栄を楽しむことが出来ていると言う。そうだろうか。確かにそういう面がないことないということは認める。しかし、それは全てアメリカの「御旨のままに」という条件がついている。つまりアメリカの国益という「盾」である。じゃあ、自主防衛、核武装が「私たちの盾」になりうるのだろうか。それもほとんど無意味に近いであろう。世界が武力によってバランスが保たれている限り常に全ての国は危険にさらされている。理想論だとして一笑に付されるかもしれないが、最も平和・友好による国際関係の樹立こそもっとも現実的な議論ではなかろうか。それをここでは「恵みの盾」、口語訳のように「盾をもってするように、恵みをもってこれをおおい守られます」という神の御業を信じ、そのための器としてくださいと祈るべきではなかろうか。
日々の聖句2013 12月17日(火)
ヤコブは、家族の者に言った。「お前たちが身につけている外国の神々を取り去り、身を清めなさい。」(創世記35:2)
あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。 (ルカ12:34)
私の黙想:
「外国の神々」、時代錯誤。「国」という概念は存在しない。日本人にとってキリスト教の神こそ「外国の神」だ。口語訳、文語訳のように「異なる神々」がいい。逆に言うと、「異なる神々ではない神」とは何か。ここでは、神がヤコブに対してわざわざ、あなたが拝すべき神とは「あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神」(1節)と定義付けている。ここでは「この神」以外の神々に関わる礼拝、習俗、衣装等をすべて捨てることが命じられている。この神の命令に答えて、ヤコブは言う。「苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る」(3節)と。これがヤコブが「体験した神」である。神とヤコブとの間で交わされたこの主従関係に基づいて、神はヤコブの名前を「イスラエル」(10節)と改名する。従って、ヤコブの神はただ独りであり、それ以外の全ての神々はもはや神ではない。ヤコブにとって、アブラハムの神「だからでも」、イサクの神「なのでもない」。単に先祖の神だから自分の神なのではない。それら一切の「習俗としての神」を超克して「私の神」である。私に、アブラハムの神、イサクの神が顕現して「私の神」となった。
日本人のキリスト者にとって「私の神」とは西欧の神でもなく、日本人の神々でもなく、哲学者の神でもない。「苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神」である。
日々の聖句2013 12月18日(水)
わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。(イザヤ42:8)
主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。(黙示録15:4)
私の黙想:
イエスが故郷ナザレでの初めての説教で、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時実現した」(ルカ4:21)と語られた時の聖書の言葉に続く部分が今日の聖句である。「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す」ために私は来た、とイエスは宣言された。これが福音である。これが今日の聖句の「わたしの栄光、わたしの栄誉」である。これは、これだけは他の神に譲れない一点である。これがわたしと偶像とを区別するただ一点である。
現実にイエスがこのことをどれだけ自覚していたのかは分からないが、このテキストによってイエスの使命を語る初期のキリスト者たちにとっては、まさにこの点が異教と福音とを区別する唯一の一点であったのであろう。イエスという人物、イエスという師、その生き方と説教において彼が目指した一点、それが「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す」ということであり、その点においてイエスはヤハウエの意志と完全に一体化している。イエスこそがヤハウエの栄光であり、栄誉である。
日々の聖句2013 12月19日(木)
わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ55:11)
ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人もパウロの話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれた。(使徒16:14)
私の名言:
今日の聖句は私の好きな言葉の一つ。この句はその前の節と組み合わせで納得する。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える」。この句を受けて「そのように」と今日の聖句につながる。ついでに、その前の2節も読むと感動する。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる、と主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」。凄い。これが神の絶対的な言葉である。
「神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の爲には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」(ロマ8:28、文語訳)。私はこの信仰を両親から受け継いで来た。
日々の聖句2013 12月20日(金)
あなたたちはわたし(モーセ)が命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。(申命記4:2)
自分自身と教えとに気を配りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。(1テモテ4:16)
私の黙想:
聖書本文の変更の禁止。これが新約聖書においてはさらに強化され、「一点一画」も廃れないという思想になる(マタイ5:18、黙示録22:18-19)。そのお陰で聖書の写本の正確な保存がなされた。この思想がカルヴァンの聖書学を経て、聖書原本において一点一画までことごとく「誤りなき神の言葉である」という現在の聖書逐語霊感説となる。聖書を一点一画まで徹底的に厳密に読み取るということと、それに束縛されるということとは異なる。その点において、イエスが「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:18)と宣言した上で、律法の言葉を厳密に受け取った上で、「しかし、私は言っておく」と繰り返された「自由」から学ばなければならないであろう。
日々の聖句2013 12月21日(土)
あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。(出エジプト34:21)
安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。(マルコ2:27)
私の黙想:
「仕事をやめねばならない」と「休まなければならない」 と同じか。前者は単に「働き」を止めることしか意味しないが、後者には「休む」という意味がある。原理的には機械は「働きを止める」必要なはない。24時間働き続けることができる。原発は一旦動かし始めたら働く続け「ねばならない」。しかし人間は一定時間働いたら休ま「ねばならない」。この「ねばならない」は単なる禁止命令ではない。人間という存在の本質に関わる事柄である。人間とはそういう存在として作られている。どんなに忙しい時、耕作の時、収穫の時であっても「休まねばならない」。機械が働き続けているときでも、人間は休まねばならない。この「ネバならない」に人間の人間性の主張が込められている。さらに言うなら、人間は労働しているときよりも、休んでいる時に人間性が発揮されている。
日々の聖句2013 12月15日(日)
主の言葉:わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる。(1サムエル2:30)
思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。(ガラテヤ6:7)
私の黙想:
今日の聖句はイスラエルの民全体に対するヤハウエの言葉ではない。これは堕落した祭司の家族への神の言葉であるということを前提に読まなければならない。祭司職とは(つまり聖職)全家族、全生涯をかけてヤハウエに仕えるために召された存在である。祭司あるいは祭司の家族がヤハウエを「侮る」(口語訳では「卑しめる」、フランシスコ会訳「見くびる」、新改訳「さげすむ」)ならば、全ての特権を剥奪し、「軽んじる」(フランシスコ会訳「軽蔑する」)と言われる。この文章はイスラエル史においては、地方に分散されていた祭儀が中央集権化される宗教環境の転換を示す言葉であろう。そういう読み方も出来るが、ここでは地方祭司エリの家族の問題として読む。
神は「わたしを敬う者を重んじ、わたしを見くびる者を軽蔑する」(フランシスコ会訳)。これは神と人間との一般論ではなく、「私と神」との個別的問題である。私が神を捨てるとき、神も私を捨てる。私が神を蔑ろにするとき、神も私を蔑ろにされる。神に仕えるということはそういうことである。では、神を蔑ろにするとはどういうことだろうか。それは究極的には「神を私の下僕であるかのように、私の願望を押し付ける」ことである。イエスは人生における最大の危機においてゲッセマネの庭で神に祈る。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。これはもう神に頼るしか行き場を失った一人の人間の祈りである。もしイエスの祈りが、ここで終わっていたら、イエスにとって神は「自分のための神」である。このぎりぎりの状況の中で、イエスは「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)と祈る。この最後の一言があるかないかが、神とイエスとの関係の極めどころである。
日々の聖句2013 12月16日(月)
主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。(詩5:13)
信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。(エフェソ6:16)
私の黙想:
信仰は戦いである。そして神の恵の象徴は「盾」として描かれている。盾は常に堅牢で敵からの攻撃を防ぐ防御の武器である。盾によって守られて、その中で安らかに生活することが出来る。その盾が「御旨のままに」では困る。それでは人間は常に「盾」のご機嫌を伺ってビクビク生きなければならなくなる。
口語訳ではこういう言葉は用いられていない。おそらくこれに対応する用語は「恵みを持って」であろう。フランシスコ会訳では「恵みの盾」である。新改訳では「大盾で囲むように愛で囲まれる」と訳している。文語訳でも「盾のごとく恩恵(めぐみ)をもてこれをかこみたまわん」である。
現在の国際関係の中で日本はアメリカの「核の傘」のもとで平和に過ごしていると言う。さらに、アメリカの軍事力によって守られているから経済的繁栄を楽しむことが出来ていると言う。そうだろうか。確かにそういう面がないことないということは認める。しかし、それは全てアメリカの「御旨のままに」という条件がついている。つまりアメリカの国益という「盾」である。じゃあ、自主防衛、核武装が「私たちの盾」になりうるのだろうか。それもほとんど無意味に近いであろう。世界が武力によってバランスが保たれている限り常に全ての国は危険にさらされている。理想論だとして一笑に付されるかもしれないが、最も平和・友好による国際関係の樹立こそもっとも現実的な議論ではなかろうか。それをここでは「恵みの盾」、口語訳のように「盾をもってするように、恵みをもってこれをおおい守られます」という神の御業を信じ、そのための器としてくださいと祈るべきではなかろうか。
日々の聖句2013 12月17日(火)
ヤコブは、家族の者に言った。「お前たちが身につけている外国の神々を取り去り、身を清めなさい。」(創世記35:2)
あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。 (ルカ12:34)
私の黙想:
「外国の神々」、時代錯誤。「国」という概念は存在しない。日本人にとってキリスト教の神こそ「外国の神」だ。口語訳、文語訳のように「異なる神々」がいい。逆に言うと、「異なる神々ではない神」とは何か。ここでは、神がヤコブに対してわざわざ、あなたが拝すべき神とは「あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神」(1節)と定義付けている。ここでは「この神」以外の神々に関わる礼拝、習俗、衣装等をすべて捨てることが命じられている。この神の命令に答えて、ヤコブは言う。「苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る」(3節)と。これがヤコブが「体験した神」である。神とヤコブとの間で交わされたこの主従関係に基づいて、神はヤコブの名前を「イスラエル」(10節)と改名する。従って、ヤコブの神はただ独りであり、それ以外の全ての神々はもはや神ではない。ヤコブにとって、アブラハムの神「だからでも」、イサクの神「なのでもない」。単に先祖の神だから自分の神なのではない。それら一切の「習俗としての神」を超克して「私の神」である。私に、アブラハムの神、イサクの神が顕現して「私の神」となった。
日本人のキリスト者にとって「私の神」とは西欧の神でもなく、日本人の神々でもなく、哲学者の神でもない。「苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神」である。
日々の聖句2013 12月18日(水)
わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。(イザヤ42:8)
主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。(黙示録15:4)
私の黙想:
イエスが故郷ナザレでの初めての説教で、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時実現した」(ルカ4:21)と語られた時の聖書の言葉に続く部分が今日の聖句である。「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す」ために私は来た、とイエスは宣言された。これが福音である。これが今日の聖句の「わたしの栄光、わたしの栄誉」である。これは、これだけは他の神に譲れない一点である。これがわたしと偶像とを区別するただ一点である。
現実にイエスがこのことをどれだけ自覚していたのかは分からないが、このテキストによってイエスの使命を語る初期のキリスト者たちにとっては、まさにこの点が異教と福音とを区別する唯一の一点であったのであろう。イエスという人物、イエスという師、その生き方と説教において彼が目指した一点、それが「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す」ということであり、その点においてイエスはヤハウエの意志と完全に一体化している。イエスこそがヤハウエの栄光であり、栄誉である。
日々の聖句2013 12月19日(木)
わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ55:11)
ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人もパウロの話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれた。(使徒16:14)
私の名言:
今日の聖句は私の好きな言葉の一つ。この句はその前の節と組み合わせで納得する。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える」。この句を受けて「そのように」と今日の聖句につながる。ついでに、その前の2節も読むと感動する。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる、と主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」。凄い。これが神の絶対的な言葉である。
「神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の爲には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」(ロマ8:28、文語訳)。私はこの信仰を両親から受け継いで来た。
日々の聖句2013 12月20日(金)
あなたたちはわたし(モーセ)が命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。(申命記4:2)
自分自身と教えとに気を配りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。(1テモテ4:16)
私の黙想:
聖書本文の変更の禁止。これが新約聖書においてはさらに強化され、「一点一画」も廃れないという思想になる(マタイ5:18、黙示録22:18-19)。そのお陰で聖書の写本の正確な保存がなされた。この思想がカルヴァンの聖書学を経て、聖書原本において一点一画までことごとく「誤りなき神の言葉である」という現在の聖書逐語霊感説となる。聖書を一点一画まで徹底的に厳密に読み取るということと、それに束縛されるということとは異なる。その点において、イエスが「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:18)と宣言した上で、律法の言葉を厳密に受け取った上で、「しかし、私は言っておく」と繰り返された「自由」から学ばなければならないであろう。
日々の聖句2013 12月21日(土)
あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。(出エジプト34:21)
安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。(マルコ2:27)
私の黙想:
「仕事をやめねばならない」と「休まなければならない」 と同じか。前者は単に「働き」を止めることしか意味しないが、後者には「休む」という意味がある。原理的には機械は「働きを止める」必要なはない。24時間働き続けることができる。原発は一旦動かし始めたら働く続け「ねばならない」。しかし人間は一定時間働いたら休ま「ねばならない」。この「ねばならない」は単なる禁止命令ではない。人間という存在の本質に関わる事柄である。人間とはそういう存在として作られている。どんなに忙しい時、耕作の時、収穫の時であっても「休まねばならない」。機械が働き続けているときでも、人間は休まねばならない。この「ネバならない」に人間の人間性の主張が込められている。さらに言うなら、人間は労働しているときよりも、休んでいる時に人間性が発揮されている。