今週のローズンゲン 2016/03/13~03/19
2016 日々の聖句 03月13日(日)
わたしは訴えをあなたに打ち明けお任せします。(Jer.11:20)
キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されました。彼は、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。(1Pet.2:21,23)
私の黙想:
エレミヤの預言活動のクライマックス、エレミヤはヤハウェによる南北両イスラエルに対する滅びの預言を語る(17節)。そのためにエレミヤは民から憎まれ、エレミヤ殺害計画がなされる。それをヤハウェはエレミヤに告げる。その時のエレミヤの態度。20節の前半でヤハウェによる復讐を祈りながら、後半で、お任せしますと言う。この態度はゲッセマネでのイエスの祈りと同じ構造である。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(Mk.14:36)。
2016 日々の聖句 03月14日(月)
人間に頼らず、主を避けどころとしよう。(Ps.118:8)
憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(Heb.4:16)
私の黙想:
こういう呼びかけをされると、私は反撥したくなる。人間を信頼することは悪いことなのか。こんなことを考えている私が僻み根性なのか、こんな呼びかけをしている人の方が歪んでいるのか。主を避けどころにしなければならないときもあるかも知れないが、普通はお互いに人間を「頼りにして」生きる。
口語訳では、ちょっと違う。「主に寄り頼むは人にたよるよりも良い」、これなら反撥する余地はない。確かに、その通りだ。フランシスコ会訳はもっと面白い。「主に寄り頼むことは、人にすがるよりも善い」。「すがる」という切実さが、救いである。それにしても奇抜な訳だ。だんだん面白くなって、新改訳を見ると「主に身を避けることは、人に信頼するよりもいい」。この訳では主との関係の方に面白さが移っている。「主に身を避ける」とはどういうことなんだろう。幼児が見知らぬ人から声をかけられて解きに、母親の後ろに隠れるような情景を思い浮かべる。興味津々、岩波訳を覗く。「ヤハウェのもとに逃れるのは、人に寄り頼むよりも善い」。うーん、かなり状況は切迫しているようだ。自力ではどうしようもない危機の中で、「逃げなければならない状況」のときに、人に助けを求めてもいいことはない。やはりヤハウェの元に逃げるのが一番。そうなると、「ヤハウェの元に逃げる」とは、どういうことか。夜逃げだ。すべての責任を主にゆだねて、「後は野となれ、山となれ」という心境で夜逃げする。
友人が『「助けて」といえる国』(集英社新書)という本を出版している。大変な評判だ。良い本だし、この言葉は良い。日本社会もそういう国になって欲しい。吉本隆明も『ひきこもれ』(大和書房)を出している。もちろん、不登校の問題を念頭に置いた本であるが、老人問題にも触れている。時にはあんまり頑張らずに、ひきこもることも必要である。
2016 日々の聖句 03月15日(火)
鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように、ただ主のみ、その民を導いた。(Deut.32:11~12)
あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(Phi.4:7)
私の黙想:
今日の聖句、全体の雰囲気は判るが、一つ一つの言葉が不明瞭。それで口語訳を見る。「わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように」、成る程「鷲が巣を揺り動かし」とは、雛を呼び起こす動作だったのか。「雛の上を飛びかけり」とは、ここに乗れという合図で、「捕らえ」とは羽を広げて乗せる事を意味していたのか。この背景には何らかの「危険が迫っている」ことを想像させる。これで10節の「主は荒れ野で彼を見いだし獣のほえる不毛の地でこれを見つけこれを囲い、いたわり御自分のひとみのように守られた」という言葉とつながる。フランシスコ会訳では「雛の上を覆うように舞」という表現が光っている。まるで「夢に見る」ような美しい情景である。まるで、力強い鷲の背中に乗って眼下に見える地上の混乱を眺め、悠々と大空を待っているような気分、ドローンの映し出される風景のようである。「信仰的視点」、それは決して「上から目線」ではないが、どろどろした現実の煩わしさを脱却した視点である。
2016 日々の聖句 03月16日(水)
友に対して悪意を耕すな、彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ。(Pro.3:29)
ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。(Gal.6:10)
私の黙想:
今日の聖句、格言としては非常に面白い。とくに「悪意を耕すな」という表現は抜群である。口語訳の「あなたの隣り人がかたわらに安らかに住んでいる時、これに向かって、悪を計ってはならない」には味がない。フランシスコ会訳では「信頼してお前と一緒に住んでいる隣人に、悪を企んではならない」もよく練られた訳ではあるが、面白さがない。文語訳はさすがに格調高い。「汝の隣、汝の傍らに安らかに居らば、之にむかいて悪を謀る事勿れ」。ついでに岩波訳を見ると「お前の隣人に悪いことを企てるな、彼がお前のそばで安心して住んでいるのに」と訳し、註で「企てるな」を文字通りには「悪を耕すな」と言う。これらを並べて見ると、珍しく新共同訳が抜群である。直訳なのに味わい深い。「悪意を耕す」という表現には時間をかけて、積み上げられる「悪意」、初めは他人同士で偶然、隣人同士になり、何の悪意も善意もなかったのに、時間の経過と共にお互いに相手の生活状態が判ってくる。その相手が自分より良い生活をしていると羨ましくなり、いろんな事を勘ぐるようになる。相手が「安心して生活していると」、逆にそれが疎ましくなり、シャクに触り、それが積もり積もって強烈な悪意となった時が危険である。自分の悪意が鏡のように相手の悪意として見えてくる。これが「悪意を耕す」ということだ。
特に、マンション住まいだと、このことを切実に思う。
2016 日々の聖句 03月17日(木)
わたしを遠く離れないでください、苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。(Ps.22:12)
キリストの言葉:心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。(Jh.14:1)
私の黙想:
詩編22編か。「わが神、わが神、なんぞ我を棄て給うや、何なれば遠く離れて我を救わず、我が嘆きの声をきき給わざるか」(1節)。イエスが十字架上で叫んだと言われている。この言葉を叫んだ後、この詩全体を心の中で唱えたと言われている。だから今日の聖句、「われに遠ざかり給うなかれ、患難近づき、また救う者なければなり」も唱えたに違いない。「棄てる神」に助けを求める。日本の格言に「棄てる神あれば、拾う神あり」というのがあるが、聖書の信仰では「棄てる神が救う神」である。いや、そうではない。「棄てる神」に「救いを求める信仰だ」。「他」を見る余裕がない。絶体絶命、ただそこにしか救いがない。棄てられようと、拾われようと、神はそこにしかない。切羽詰まった所でしか生きられない。
2016 日々の聖句 03月18日(金)
雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻らず、大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出る言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。(Isa.55:10~11)
良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、豊かに実を結ぶのである。(Mk.4:20)
私の黙想:
今日の聖句、私の好きな御言葉の一つ。人間の言葉は何と空しく消えてしまうのだろう。すごく飛躍するが、コリント前書第13章の言葉を思い起こす。この言葉は通常、愛の賛歌と呼ばれている言葉の冒頭の句である。「たとひ我もろもろの國人の言および御使の言を語るとも、愛なくば鳴る鐘や響く鐃はちの如し。假令われ預言する能力あり、又すべての奧義と凡ての知識とに達し、また山を移すほどの大なる信仰ありとも、愛なくば數ふるに足らず」。讃えられているのは「愛」である。しかし引き合いに出されているのは「言葉」である。人間の言葉の空しさである。どんなに立派な思想・哲学・文学であっても、そこに「愛」がなければ空しく消えていく。しかし、愛があればその言葉は空しくは「戻ってこない」。その「言葉」は相手の中で働き、相手を変え、相手を元気にし、相手を新しくして、「私の元に戻ってくる」。それはまさに「神の言葉」となる。
2016 日々の聖句 03月19日(土)
恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(Isa.54:4)
キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。(1Pet.4:16)
私の黙想:
「もはや恥を受けることはない」とはどういうことであろう。過去に恥ずかしいことをしてきたということを自覚している。だから、恥を受けても言い返せない。だから号泣するほかない。今日の聖句は「恐れるな」という。「もはや恥を受けることはない」と言う。「若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな」と言う。「恥ずかしいこと」と思っていたことが、もはや「恥ずかしいこと」ではなくなった。倫理基準が、価値観が変わった。それは「赦し」ではない。ここで取り上げられている「実例」は不妊ということである。昔は「不妊」は恥であった。しかし、「もはや」不妊は恥ずかしいことではなくなった。ここでは「沢山の子を産む」といわれているが、そんなことが問題なのではない。産もうと産むまいと、そんなことで差別されることはなくなった。今の問題の「実例」としてセクスチャル・マイノリティの問題がある。それはもはや「恥ずかしいこと」ではなくなった。男という人間が居り、女という人間が居るのとまったく同じように、神に祝福された一人の人間として居る。「神は御自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福された。それとまったく同じように、第3のジェンダーを創造され、祝福された。昔、人間はそのことに無知であった。しかし、「もはや」それは知らされ、無知では済まされなくなった。「若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな」と主は言われる。
2016 日々の聖句 03月13日(日)
わたしは訴えをあなたに打ち明けお任せします。(Jer.11:20)
キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されました。彼は、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。(1Pet.2:21,23)
私の黙想:
エレミヤの預言活動のクライマックス、エレミヤはヤハウェによる南北両イスラエルに対する滅びの預言を語る(17節)。そのためにエレミヤは民から憎まれ、エレミヤ殺害計画がなされる。それをヤハウェはエレミヤに告げる。その時のエレミヤの態度。20節の前半でヤハウェによる復讐を祈りながら、後半で、お任せしますと言う。この態度はゲッセマネでのイエスの祈りと同じ構造である。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(Mk.14:36)。
2016 日々の聖句 03月14日(月)
人間に頼らず、主を避けどころとしよう。(Ps.118:8)
憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(Heb.4:16)
私の黙想:
こういう呼びかけをされると、私は反撥したくなる。人間を信頼することは悪いことなのか。こんなことを考えている私が僻み根性なのか、こんな呼びかけをしている人の方が歪んでいるのか。主を避けどころにしなければならないときもあるかも知れないが、普通はお互いに人間を「頼りにして」生きる。
口語訳では、ちょっと違う。「主に寄り頼むは人にたよるよりも良い」、これなら反撥する余地はない。確かに、その通りだ。フランシスコ会訳はもっと面白い。「主に寄り頼むことは、人にすがるよりも善い」。「すがる」という切実さが、救いである。それにしても奇抜な訳だ。だんだん面白くなって、新改訳を見ると「主に身を避けることは、人に信頼するよりもいい」。この訳では主との関係の方に面白さが移っている。「主に身を避ける」とはどういうことなんだろう。幼児が見知らぬ人から声をかけられて解きに、母親の後ろに隠れるような情景を思い浮かべる。興味津々、岩波訳を覗く。「ヤハウェのもとに逃れるのは、人に寄り頼むよりも善い」。うーん、かなり状況は切迫しているようだ。自力ではどうしようもない危機の中で、「逃げなければならない状況」のときに、人に助けを求めてもいいことはない。やはりヤハウェの元に逃げるのが一番。そうなると、「ヤハウェの元に逃げる」とは、どういうことか。夜逃げだ。すべての責任を主にゆだねて、「後は野となれ、山となれ」という心境で夜逃げする。
友人が『「助けて」といえる国』(集英社新書)という本を出版している。大変な評判だ。良い本だし、この言葉は良い。日本社会もそういう国になって欲しい。吉本隆明も『ひきこもれ』(大和書房)を出している。もちろん、不登校の問題を念頭に置いた本であるが、老人問題にも触れている。時にはあんまり頑張らずに、ひきこもることも必要である。
2016 日々の聖句 03月15日(火)
鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように、ただ主のみ、その民を導いた。(Deut.32:11~12)
あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(Phi.4:7)
私の黙想:
今日の聖句、全体の雰囲気は判るが、一つ一つの言葉が不明瞭。それで口語訳を見る。「わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように」、成る程「鷲が巣を揺り動かし」とは、雛を呼び起こす動作だったのか。「雛の上を飛びかけり」とは、ここに乗れという合図で、「捕らえ」とは羽を広げて乗せる事を意味していたのか。この背景には何らかの「危険が迫っている」ことを想像させる。これで10節の「主は荒れ野で彼を見いだし獣のほえる不毛の地でこれを見つけこれを囲い、いたわり御自分のひとみのように守られた」という言葉とつながる。フランシスコ会訳では「雛の上を覆うように舞」という表現が光っている。まるで「夢に見る」ような美しい情景である。まるで、力強い鷲の背中に乗って眼下に見える地上の混乱を眺め、悠々と大空を待っているような気分、ドローンの映し出される風景のようである。「信仰的視点」、それは決して「上から目線」ではないが、どろどろした現実の煩わしさを脱却した視点である。
2016 日々の聖句 03月16日(水)
友に対して悪意を耕すな、彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ。(Pro.3:29)
ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。(Gal.6:10)
私の黙想:
今日の聖句、格言としては非常に面白い。とくに「悪意を耕すな」という表現は抜群である。口語訳の「あなたの隣り人がかたわらに安らかに住んでいる時、これに向かって、悪を計ってはならない」には味がない。フランシスコ会訳では「信頼してお前と一緒に住んでいる隣人に、悪を企んではならない」もよく練られた訳ではあるが、面白さがない。文語訳はさすがに格調高い。「汝の隣、汝の傍らに安らかに居らば、之にむかいて悪を謀る事勿れ」。ついでに岩波訳を見ると「お前の隣人に悪いことを企てるな、彼がお前のそばで安心して住んでいるのに」と訳し、註で「企てるな」を文字通りには「悪を耕すな」と言う。これらを並べて見ると、珍しく新共同訳が抜群である。直訳なのに味わい深い。「悪意を耕す」という表現には時間をかけて、積み上げられる「悪意」、初めは他人同士で偶然、隣人同士になり、何の悪意も善意もなかったのに、時間の経過と共にお互いに相手の生活状態が判ってくる。その相手が自分より良い生活をしていると羨ましくなり、いろんな事を勘ぐるようになる。相手が「安心して生活していると」、逆にそれが疎ましくなり、シャクに触り、それが積もり積もって強烈な悪意となった時が危険である。自分の悪意が鏡のように相手の悪意として見えてくる。これが「悪意を耕す」ということだ。
特に、マンション住まいだと、このことを切実に思う。
2016 日々の聖句 03月17日(木)
わたしを遠く離れないでください、苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。(Ps.22:12)
キリストの言葉:心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。(Jh.14:1)
私の黙想:
詩編22編か。「わが神、わが神、なんぞ我を棄て給うや、何なれば遠く離れて我を救わず、我が嘆きの声をきき給わざるか」(1節)。イエスが十字架上で叫んだと言われている。この言葉を叫んだ後、この詩全体を心の中で唱えたと言われている。だから今日の聖句、「われに遠ざかり給うなかれ、患難近づき、また救う者なければなり」も唱えたに違いない。「棄てる神」に助けを求める。日本の格言に「棄てる神あれば、拾う神あり」というのがあるが、聖書の信仰では「棄てる神が救う神」である。いや、そうではない。「棄てる神」に「救いを求める信仰だ」。「他」を見る余裕がない。絶体絶命、ただそこにしか救いがない。棄てられようと、拾われようと、神はそこにしかない。切羽詰まった所でしか生きられない。
2016 日々の聖句 03月18日(金)
雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻らず、大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出る言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。(Isa.55:10~11)
良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、豊かに実を結ぶのである。(Mk.4:20)
私の黙想:
今日の聖句、私の好きな御言葉の一つ。人間の言葉は何と空しく消えてしまうのだろう。すごく飛躍するが、コリント前書第13章の言葉を思い起こす。この言葉は通常、愛の賛歌と呼ばれている言葉の冒頭の句である。「たとひ我もろもろの國人の言および御使の言を語るとも、愛なくば鳴る鐘や響く鐃はちの如し。假令われ預言する能力あり、又すべての奧義と凡ての知識とに達し、また山を移すほどの大なる信仰ありとも、愛なくば數ふるに足らず」。讃えられているのは「愛」である。しかし引き合いに出されているのは「言葉」である。人間の言葉の空しさである。どんなに立派な思想・哲学・文学であっても、そこに「愛」がなければ空しく消えていく。しかし、愛があればその言葉は空しくは「戻ってこない」。その「言葉」は相手の中で働き、相手を変え、相手を元気にし、相手を新しくして、「私の元に戻ってくる」。それはまさに「神の言葉」となる。
2016 日々の聖句 03月19日(土)
恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(Isa.54:4)
キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。(1Pet.4:16)
私の黙想:
「もはや恥を受けることはない」とはどういうことであろう。過去に恥ずかしいことをしてきたということを自覚している。だから、恥を受けても言い返せない。だから号泣するほかない。今日の聖句は「恐れるな」という。「もはや恥を受けることはない」と言う。「若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな」と言う。「恥ずかしいこと」と思っていたことが、もはや「恥ずかしいこと」ではなくなった。倫理基準が、価値観が変わった。それは「赦し」ではない。ここで取り上げられている「実例」は不妊ということである。昔は「不妊」は恥であった。しかし、「もはや」不妊は恥ずかしいことではなくなった。ここでは「沢山の子を産む」といわれているが、そんなことが問題なのではない。産もうと産むまいと、そんなことで差別されることはなくなった。今の問題の「実例」としてセクスチャル・マイノリティの問題がある。それはもはや「恥ずかしいこと」ではなくなった。男という人間が居り、女という人間が居るのとまったく同じように、神に祝福された一人の人間として居る。「神は御自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福された。それとまったく同じように、第3のジェンダーを創造され、祝福された。昔、人間はそのことに無知であった。しかし、「もはや」それは知らされ、無知では済まされなくなった。「若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな」と主は言われる。