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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/1/1~1/6

2018-01-08 06:50:20 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/1/1~1/6

2018 日々の聖句 1月1日(月)
あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。(申命記5:32)

イエスの言葉:あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。(ヨハネ15:8)

私の黙想:
神を「あなたたち(わたしたち)の神」と呼ぶセンス。日本には「トイレの神」は存在しても「私の神」はいない。神は誰でもの神であり、同時に誰のものでもない神である。時には「お客さま」が神になったり、「神風」が吹いたりする。
一寸、注意深く、若者たちが使う言葉を見ていると、近頃の「ネット文化」において「神」という言葉が多用されていることが気になる。インターネット上では自分よりスゴイ人に対して「神」ないしは「ネ申」という書き方をするらしい。あるいはさらに、何かを茶化して「ネコ」なんていう書き方もする。要するに、街中に見られる電信柱や壁にある「神は〇〇なり」なんていうポスターのはげた形らしい。その他にも「神動画」「神ゲー」「神曲(これはダンテの神曲とは全く無関係な、この曲が無ければ人生も終わりと感じるほど優れた曲)」「神編集(失神するぐらい優れた編集)」などなど。要するに、その仕事が並外れて「スゴイ」場合に、何の躊躇も無く「神」という言葉を使うらしい。面白いな、と思うことはその場合に、「神」は「私を離れている」あるいは「私ではない」という非常に主観的な内容を意味しているらしい。
黙想がかなり脱線してしまったが(これも神さまのお導きか)、要するにそのばあいの「神」は少なくとも「私の神」ではない。そう言えば、一昔前「フォークの神さま」と呼ばれた男もいたな。
こういうことなども、すべてひっくるめて、「あなたたち(わたしたち)の神」という文化がないから出来ることであろう。(この黙想、元旦に相応しいか、相応しくないか?)

2018 日々の聖句 1月2日(火)
主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。(主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め、)シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために、わたしを遣わした。(イザヤ61:1,3)

イエスの言葉:疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)

私の黙想:
今日の聖句を「日々の聖句」ではかなり自由に再編集している。この個所は預言者の召命が述べられている。新共同訳ではこの個所に「貧しい者への福音」と言うタイトルを付け、フランシスコ会訳では「主の恵みの年の宣言」としている。面白い対照だ。日々の聖句では2節を省略しているのでせっかくの「主が恵みをお与えになる年」というせっかくの新年に相応しい言葉が読まれない。ここを読まなければ、今日の聖句は「貧しい者への福音」というメッセージが表に立つ。
バビロン捕囚中の民への近い将来の回復の希望を語る第3イザヤの典型的なテキストだ。
初期のキリスト者は、ここで述べられている「油を注がれた預言者」を「キリスト」と解釈し、イエスをキリストと告白した。

2018 日々の聖句 1月3日(水)
わたしの魂よ、再び安らうがよい、主はお前に報いてくださる。(詩116:7)

わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(フィリピ4:19)

私の黙想:
「安らう」のは「元の安らぎ」に帰ること。新しさが悪いわけではないが、そこには「安らぎ」はない。やはり安らぎは「古巣」に戻ること。見慣れ、親しい関係に戻るときに「安らぎ」がある。ところで、ここで「報いてくださる」とはどういうことなんだろう。フランシスコ会訳では「安らぎに戻れ」、新改訳は「お前の全きいこいに戻れ」、関根先生は「帰れ」。岩波訳はもっと強烈に「帰れ、わが魂よ、お前の憩いの場に」。
それに応じて後半も、口語訳では「おまえをあしらわれる」。なかなか含蓄のある言葉だ。特別な歓迎ではない。普段の生活である。食べるものも、飲むものも、風呂もベッドも前のままである。岩波訳と新改訳は「良くしてくださったからだ」と訳している。関根先生は「豊かにお前をあしらわれるからである」。新共同訳の「報いてくださる」では、私に向かうよりも敵に向かって報復するという印象が残る。
ここのイメージは、帰宅した放蕩息子を迎える父親の場面を思わされる(ルカ15)。

2018 日々の聖句 1月4日(木)
主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに(選ればれたのである)。(申命記7:7~8)

神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。(1コリント1:28~29)

私の黙想:
神が誰を神の僕として選ぶかは全く神の自由意志である。優秀なものを選ぶことも出来るし、劣等生を選ぶことも出来る。しかし、神がどういう人に「心引かれる」かは、そのレベルの神の自由意志を越えている。「心引かれる」という言葉がポイントだ。神がどういう人物、(ここでは民族)に「心引かれるか」、「魅力を感じるか」は、神の自由意志というよりも神の性格(本性)に基づく。「心引かれる」という言葉にはそういう意味が込められてくる。口語訳では選ればれた理由は「愛した」からだという。フランシスコ会訳でも「愛情を傾け」、新改訳はかなり強烈に「恋い慕って」と訳している。岩波訳は少々工夫して「数が多かった」からでは無いと否定した上で、「慈しみ」と訳している。どの訳が最も原典に近いのかは私には判定できない。
ここでの文脈ではアブラハムの選びではなく、出エジプトの出来事を背景にして「選び」が述べられている。選ばれた彼らはエジプトにおいて余程みじめな民族であったのであろう。エジプトの奴隷であった時代のイスラエル民族がどういう状態にあったのか、とくにその宗教生活の面ではあまり詳しくは述べられていない。ただ、モーセの成育過程において乳母として雇われたのが「ヘブライ人の女」だったというだけで、多くの保守的な人々は乳母を通してイスラエル宗教がモーセに影響を与えたと解釈するが、聖書にはそのような記述はない。むしろ、モーセ自身は宮廷から逃げ出した後、ミディアンの地に宿り、そこでミディアン宗教の影響を受けたらしい。ただ、モーセが召命を受けたとき、ヤハウェは「先祖の神」であることを告げている。それぐらいで、イスラエルの民はエジプトの地においてエジプト人化することが無かったということが注目される。
ヤハウェがイスラエルの民に「愛」を感じたのは、ただ「先祖に誓われた誓いを守られた」からだという。ここでも申命記特有の「契約思想」が顔を出している。

2018 日々の聖句 1月5日(金)
呼び求めるわたしに答え、あなたは魂に力を与え解き放ってくださいました。(詩138:3)

あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。(1ペトロ5:10)

私の黙想:
「魂に力を与え」、魂に強弱がある。魂が弱くなると、気も弱くなり、体力も衰え、流れるままながされる。しかし強い魂は気力であり、体力でもあり、決して世間の流れに流されず、自分の生きる力で主体的に生きる。岩波訳は面白い。「あなたは私に力を増し加えてくださる、わが魂の中で」。なかなか含蓄のある訳である。この訳から見ると、「あなた」は私の魂の中におられ、そこから「私自身に」力を与えるという構造になっている。70人訳を直訳すると「力をもって私を励まし」ということらしい。イメージとしては、ヤハウェはチームの中にあってチームの一員として、戦う選手たちを応援する「チアガール」のような感じだろうか。あくまでも戦うのは選手たちであるが、その選手たちに力を与える。
新共同訳の「解き放って」は、ここでは決して「解放」ではなく、広げる、広くするという意味らしい。関根訳では「広くして」とある。原文の「タルヒヴェーニ」は直訳すると「私を奮起させた」である。
人間は弱ると気が小さくなり、縮こまる。当然、視野も狭くなる。しかし、私の内なる神の霊の力により、気が大きくなり、将来への見通しも広くなり、態度も堂々としてくる。これが「魂の力」である。
今日から、再入院し、日々の聖句を読む場合の参考資料が著しく制限される。しかし、それに代わって私自身の想像力は広くなり、聖書の言葉を深く読むことが出来るであろう。

2018 日々の聖句 1月6日(土)
見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。(イザヤ40:10)

これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。(ルカ1:78~79)

私の黙想:
この文脈では「御腕を持って」という言葉には武力、ないしは軍事力を思わされる。そうか、軍拡競争か。それなら言うが、この世には、私たちの神の武力に勝るものは他にはない。絶対的な軍事力によって世界を統治されるのだ。という、現実的な響きがある。人間が持っている武力など、一寸風が吹けば、あるいは一寸暑い日が続けば、草木のように枯れてしまう。だから、そんなものに依存している軍拡競争など、つまらん、つまらん。
初期の教会において、イザヤ書40章の3節の言葉は、イエスの顕現に先だって、イエスの登場の準備した洗礼者ヨハネの登場を予告する言葉として理解された。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備えわたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」。当時のユダヤ人たちは、メシアの登場を「力を帯びて来られ」ると期待していた。ところが実際に登場したメシアは「驢馬に乗って田舎道をとぼとぼと旅するイエスであった」。だから人々はイエスをメシアだとは思わなかったし信じなかった。そこにユダヤ人たちの躓きがあった。

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