ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

第7回マタイ福音書講釈 「天国の譬えによる説教」(13:1~53)

2014-06-23 09:25:12 | 聖研
みなさま、
ジメジメした梅雨の季節となりました。お変わりありませんか。昨日の聖書研究会の原稿をお送りします。今回はかなり難しい問題の挑戦しました。この問題は主日の日課だけしか読んでいない人には、隠されている問題です。これを知ると、信仰が躓くかもしれません。その意味では「危ないテキスト」を含んでいます。

第7回 マタイ福音書講釈 天国の譬えによる説教(13:1~53) 2014/06/22

はじめに
  13:1~9,18~23    特定10
  13:24~30,36~43  特定11
  13:31~33,44~49  特定12
主日のテキストとしては、譬話そのものは取り上げられているが、何故、イエスは譬えで語るのかという疑問についてのテキストは取り上げられていない。しかしマタイ福音書を読むとこの「何故」が大きなテーマになっている。
 13:10~17 何故、あの人たちには譬えを用いた語るのか。
 13:34~35 譬えを用いないでは語られなかった
 13:50~52 天の国を学ぶということ

1.この「天国の譬えによる説教」の構成
ここではもはや「一つの説教」という形式にこだわっていない。というより、こだわりきれない。むしろ13章はイエスが語ったと思われるいくつかの譬えを紹介して、何故イエスは譬えで語るのかということについての議論と言った方がいいであろう。先ず全体の構造を確認しておく。

第1部 御国の言葉を聞く姿勢
 (1) 03~09 種を蒔く人の譬え(パラボレー) 並行記事:マルコ4:1~9、ルカ8:4~8
 (2) 10~17 なぜ譬えで語るのか 並行記事:マルコ4:10~12、ルカ8:9~12、10:23~24
  10~15はマルコの引用、16~17はQ
 (3) 18~23 種を蒔く人の譬えの解題 並行記事:マルコ4:13~20、ルカ8:11~15

第2部 この世における天国とは
 (1) 24~30 毒麦の譬え(マルコ4:26~29、但し並行記事とはいえない)
 (2) 31~32 からし種(マルコ4:30~32)
 (3) 33~     パン種の譬え
 (4) 34~35 譬えでしか語らない
 (5) 36~43 毒麦の譬えの解題 並行記事なし。
  からし種の譬えとパン種の譬えの解題がない。

第3部 隠れた天国を見つける(「たとえられる(ホモイア)」)
 (1) 44~46 天国の譬え2題 並行記事なし。
 (2) 47~49 終末における天国 並行記事なし。
 (3) 50~52 天国とは発見するものである 並行記事なし。

2.譬えとは何か
この章での問題点は、10節の弟子たちのイエスへの問い「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」という点にある。この問題は非常に難しい問題を含んでいる。そこで先ずその問いの前提になる譬えとは何かということについて明らかにしておきたい。
ここでは「譬え話」を意味する言葉として「パラボレ」と、「ホモイア(~に似ている)」が使われている。この使い分けがかなりはっきりしている。23節までがもっぱら「パラボレ」で24節から43節までが併用で、44節以後はもっぱら「ホモイア」という言葉が用いられている。パラボレと呼ばれる「譬え話」はかなり長くドラマ性があるのに対して「ホモイア」は短い文章で「天の国は~~似ている」という形式をとっている。「ホモイア」の方を読むとそれが「Aと掛けましてBと解く。その心は~~」といういわゆる大喜利、なぞなぞ小話に似ている。AとBとの関係が意外であればあるほど、それを聞く人々は笑う。面白い実例を一つ紹介すると「美人の奥さんと掛けて、夏の終わりと解く。その心は秋(飽き)が来るでしょう」、というようなものである。これは笑いを誘うための典型的な小話であるが、何か深遠な真理を解き明かす話ではない。ところがイエスが語ったとされるホモイアは「天の国と掛けて~~と解く」という形式であり、私はそれを一応「天国小話」としておく。44節以下のところでは、3つ紹介されている。
(1)天国と掛けて「宝が隠されて畑」と解く。その心は「・・・・・」。(2)あるいは天国と掛けて「商人が探している良い真珠」と解く、その心は「・・・・」。第3のホモイアは、天国と掛けて「漁師が引き上げた網」と解く、その心は「・・・・」。非常にわかりやすい。しかしその内容はかなり深刻である。
ところでこれら3つの譬え話を聞いて、あなたは一体天国をどういう所だと思うか。第1の譬えでは天国は「隠されている」、第2の譬えではでは、「探して見つける」、第3の譬えでは「いいもの」も「悪いもの」もごちゃまぜの状態である。
以上が天国小話の原型である。興味深い点は、マタイはこれら3つの天国小話の前に24節から43節で3つの譬え話(パラボレ)を紹介しているが、これらは3つともホモイアとも呼ばれ、2つの用語が併用されている。
「イエスは、別の譬え(パラブル)を持ちだして言われた。『天の国は次のようにたとえられる(ホモイア)』」。31節でもパラブルとホモイア、33節でもパラブルとホモイアが併用されている。最初の「毒麦の譬え」は後で取り上げるとして、後の2つの方は譬え話というよりも44節以下の小話とほとんど同じである。「天の国」と掛けて「辛子種」と解く、その心は「・・・・」であり、もうひとつの方は「天の国」と掛けて「パン種」と解く、その心は「・・・・・」で、これも分かりやすい。最初の方は天国は今は小さい存在であるが、やがて大きくなるという話であるし、後方は「小さな天国の種」が社会全体を大きくするという譬えであろうと思われる。最初の「毒麦」の譬えは天国は「敵の攻撃の的になる」ということで、漁師の網のたとえと共通したメッセージを示していると思われる。
つまり天国小話も譬え話もその本質は同じだということを示しているのだろうか。これら3つの譬え話は後になるほど短くなる。逆に言うと前になるほど長くなり、天国小話から譬え話への成長が読み取れる。「毒麦の譬え」ではもう明白に「譬え話」であり、小話とは言えない。
つまりイエスの譬えとは本来こういう形であったものと思われる。つまり譬えとは難しい内容の事柄を身近で分かりやすい素材を取り上げて理解させるためのレトリック(話法)である。それが、徐々にいろいろな枝葉が付け加えられ物語化たものが『譬え話」である。その場合、難しい事柄(A)とやしい事柄(B)との間に類比関係がある。その類比関係がわからないと譬え話は成り立たない。ところが譬え話においてAとBとの類比関係がわからないと謎になる。当然そこで類比関係が分かる人と分からない人とがいる。あるいは分かったつもりでも、もっと別の解釈もあるのではないかという考えも出てくる。これが「謎解き」ということである。

3.「謎解きの例題」
そこで一つの譬え話を例にして「謎解き」の練習をしてみる。
<「天の国とは次のようなものだ。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう』。」(24~30)>
この譬えではAははっきりしているがBが長くてわかりにくい。しかしAとBとの類比関係がわかりにく。何故、こんなことが「天国」なのか、謎である。でも考える余地はある。もし、この譬え話を解らなくしているものがあるとすると、それは語り手の「天国理解」と聞き手のそれとのギャップであろう。自分の天国観に囚われていると、語り手の天国観が受け入れられないので、謎のままにとどまる。
この譬え話の謎解きは36節以下。ここでは複数のaと複数のbとの類比関係が明かされている。
良い種をまく人=人の子、畑=世界、良い種=御国の子ら、毒麦=悪い者の子ら、毒麦を蒔いた敵=悪魔、刈り入れ=世の終わり、刈り入れる者=天使たち
しかしこの謎解きを詳細に読むと譬え話本文と多少ずれている点が見られる。例えば、本文での強調点は「そのままにしておけ」という点であるが、謎解きの方では、世の終わりの刈り入れに強調点があるように思われる。また本文では刈り入れる者が人間を思わせるのに、謎解きの方では「天使たち」と明言される。最も重要なズレはは、毒麦の存在を発見しているのは下僕たちであるのに、世の終わりに良い麦と毒麦とを仕分けるのは「人の子」であり、毒麦は「つまづきになるもの」とされている。これは明らかにイエスの時代というよりも教会の時代を背景にしている。ともかく、細かい差異は無視するとして最も肝心な「天国(A)」に対応するBが不明のままである。その答えはこの譬話の前提にある。マタイにおいては天国とは教会を意味している。この点については、この関係はこれに続く全ての「天国小話」に通じる謎解きである。つまり、譬え話の解釈はイエス自身によってなされたというよりも、後の時代、教会が成立した後の解釈であるということが明らかである。

4.種を蒔く人の譬え
さて、いよいよ「種を蒔く人の譬え」について考える。この章の譬え話集の中でこの譬えだけが「天の国について」という言葉がない。つまりこの話は何かについての譬えだという前置きもなしに、いきなり譬え話そのものを話し始める。従って譬え話なのかただ単なる種まきの話なのかもはっきりしない。この点についてはマルコも同様である。それはこの話がもともとそういう話だったのか、編集者の意図かも不明である。勿論、誰かが誰かの前で話をするということには語り手がどういう人間なのかといういわゆる前理解ががあるから、まさか農業の話だとは思わないであろうが、話の意図というものがはっきりしないであろう。
従って弟子たちもそのことを気にして、イエスが話し終えると待っていたかのように、「弟子たちはイエスに近寄って」、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」と問う。これは質問というよりも「せめて、これは天の国についての譬え話だということぐらい明らかにした方がいいのじゃありませんか」という「軽い批判』あるいは「諫言」であろうと思われる。それに対してイエスは次のように答える。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」。このイエスの答えは意外である。以外というよりも「譬え話の謎以上の謎」である。何故譬え話を用いて話をするのか。それは自明である。それをわざわざ問うことも謎であるが、その答えも謎である。
譬え話とは難しい事柄を分かりやすくするというレトリックであるが、同時にもう一つの機能もある。それは公の場でそこにいるすべての人の語りつつ、その話の本当の意図とか意味とかを一部の人にだけ通じるような働きである。そのことを通して仲間意識を強めたり、分かる人分からない人とを選別したりする働きである。例えば、野球の監督の話をしながら実は自分たちが属している組織内の問題点を批判したり、あるいは高校生が仲間用語だけで話をして周りの大人たちを笑いものにしたりする。いわゆる隠語、あるいは業界用語などである。しかしイエスの譬えの場合、そういうこととは思えない。

5.「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」
イエスの譬え話について福音書の読者にとって悩ましい問題がある。この問題をどう考えたらいいのか。そのことについてはっきりと文字化したのがマタイである。弟子たちはイエスに問う。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」。この問に対してイエスは次のように答える。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」(マタイ13:10~11)。
この問いと答えはマルコ福音書に発すると思われる。マルコのその箇所を読むと次のようになっている。
「イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。『あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」ようになるためである』」。(マルコ4:10~12)
よく読むと、そのとき弟子たちは「尋ねた」とあるが、何を尋ねたのか明記されていない。しかしイエスの応答は明らかに、何故イエスが公開の場では譬えでしか語らないのかという問いに対する答えになっている。それでマタイはマルコにおける質疑を補う上で、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」という質問の言葉を補ったのであろう。ルカはやはりマルコの文章における「尋ねた」という質問の内容を、「このたとえはどんな意味か」(ルカ8:9)と解釈している。そのために質問と答え(11節以下)とが直結し、10節のイエスの言葉は保持されているが、悩ましい問題には触れようとしない。その後もこの問題には一切触れない。
ともかく、このイエスの言葉は厄介な文章である。何時、誰が、どういう目的で、イエスに「何故、あなたは公開の場では譬え話しかしないのですか」と問いかけたのか。またそれに対するイエスの言葉の意味は何か。遠い過去のことでよく解らない。だからルカのように言葉は残すが完全に無視することもできる。
この時のイエスの厄介な言葉の主旨は、要するに「私が譬えで話をするのは、話をしてもわからない人たちには、あえてわからないようにするためなのだ」ということになる。本音を隠すために譬え話をする。そんなことアリかという感じがする。それなら話さなければいいではないかと言いたくなる。人に何かを語るのは理解をさせるためである。だからこのイエスの言辞には何か重要な中間項が落ちている感じがする。それは何か。はっきり言ってイエスの言葉は私たちの理解を超えている。ともかく、3人の福音書記者は理解できないまま、この伝承を書き残している。分からないから切り捨ててしまうというのではなく、分からないことは、分からないまま後の時代に継承するということも大切なのである。
ただマルコは密かに「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」(マルコ4:33~34)という言葉を挿入し、自分の考えを述べている。「たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」。つまり「神の国の秘密」は弟子たちにだけ開示した。これが使徒の権威の源泉となったというのであろう。しかし、このマルコの言葉には33節と34節との間に重要な矛盾がある。それは「聞く能力に応じて」という言葉は、「分からせる」という目的があればこそ成り立つ言葉である。
マタイもこの悩ましい問題については基本的にはマルコと共有しているが、マルコの「弟子たちだけには」という部分については納得していないようである。マタイ13:16~17で「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」と語り、読者に(キリスト者)にとってはすでに経験している事柄だと語る。つまり世の人々にとっては「謎」であるが、あなた方にとっては謎ではなく自明なことであるという。つまりイエスの譬えを理解できる人間と理解できない人間とに分かれる原因は、語り手であるイエスの側の問題ではなく聞く側の問題なのだということであろう。従ってマタイはマルコ13:34の言葉を削除する。
この問題についてのマタイの視点の重要性は次の言葉に見られる。「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる」(マタイ13:35)。この部分はいわゆる定形引用であるが、ここで「預言者の言葉」とされている言葉は詩78:2~3の引用である。ここでの「たとえ」という言葉は詩編の方では「箴言」と訳されているが、要するにマタイはこの句をメシアは譬えによって民衆に「天地創造の時から隠されていたことを告げる」のだと解釈する。もちろんマタイはイエスの話が譬え話に限らないことを知っている。例えば「山の上での説教」など、譬え話ではない。その意味であマタイが「(イエスは)たとえを用いないでは何も語られなかった」というとき、それは単にイエスが群衆に向かって話をするその話が譬え話であったということを意味しているわけではない。むしろ個別的な説教とか行為とかが譬え話であったかどうかではなく、イエスの活動とその生そのものが「天の国の秘密」を語る譬えなのだという理解である。イエスが山の上で群集に「幸いなるか」と語りかける言葉がたとえなのではなく、イエスと共にいるその場が、天の国のパラボレー(比喩)である。イエスが病人を癒す時、そこに「天の国」が比喩的に存在している。その意味ではマタイにとってイエスの生き方に従っている「イエスの集団」つまり教会そのものが「天の国の比喩(アナロギア)」なのである。
これがマタイが到達した譬え話論への解答であろう。キリスト者はすでにそのことを経験しているが、イエスの言葉を受け入れない人たちには、「まだ」、隠されている。つまりイエスの集団「教会(B)」と「天国の奥義(A)」との関係が、まだ謎のままである。

6.種を蒔く人の譬えの解釈
さて話を「種を蒔く人の譬え」に戻る。この譬え話は通常「種を蒔く人の譬え」とか「種まきの喩え」等と名付けられているが、主題は種や種を蒔く人ではなく、蒔かれた土地が主題である。この話を聞いて誰が農業技術の教えと考えるだろうか。誰もそんなことは考えない。誰れでもこの譬え話を聞けば、4種類の畑が人間の心のことだろうなということぐらいのことは見当がつく。そうすれば心に蒔かれるものが何らかの教えだろうなということも推測できる。そうすればこの譬え話は謎でも、神秘でもなくごく普通の教訓話だと思うだろう。その意味では非常に有り難い教えだと思う。その意味では18節以下の解説など不要である。その程度の事なら誰でも思うことである。だとすると、この話を聞いて、何故イエスは譬え話をするのかというような疑問が出てくるはずがない。あるいは謎解きをするようにイエスに何が言いたいのですかなどと問うこともないであろう。従って譬話論とこの譬話とは直接的な関係はない。もし誰か捻くれた人がいて、イエスを批判するとしたら、何故、誰でもわかるようなそんな教訓話をするのですか。せっかく人の前で話をするなら「福音を語れ」と言うぐらいのことでしょう。
つまり、この話のどこが「天の国の秘密なのだろうか」ということである。もし天の国の秘密らしいことがあるとするならば、蒔かれた種(B)が「御国の言葉(A)」を意味するということぐらいであろう。イエス自身の話の中では、それを感じさせる、あるいは暗示する言葉は全くないから、その解釈は「後の世」つまり教会の解釈であろう。言い換えると、イエス自身はごくありふれた教訓話をしているのを、教会においては「種=神の言葉」とすることによって、教会以外の人にはわからない話にしてしまった。そしてその秘密の「謎解き」をイエス自身が弟子たちに開示したのだという歴史が作られた。いや、もっと批判的に言うならば、この譬話そのものもイエスが語ったのかどうか証拠はない。
もっと捻くれた解釈をするとしたら、この「御国の言葉」も「宣教の言葉」であって、宣教が振るわないのは種が悪いのでもなく、それを蒔く人間が悪いのでもなく、宣教の実が実らないのは「聞く耳を持つ者が少ないからだ」という言い訳にも聞こえる。

最新の画像もっと見る