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コイノーニア、コイノーネン、コイノーノス

2016-02-14 11:13:32 | 雑文
コイノーニア、コイノーネン、コイノーノス(バークレー『新約聖書ギリシャ語精解』)

「交わり」という基木的な概念と関係を有する一群の語が新約聖書に見出される。その一つがコイノーニアである。古典ギリシア語においてコイノーニアは、団体、共同、提携を意味し、プラトンは共学のための男女のコイノーニアという句を用いている。人間のコイノーニアはギリシャ語で人間社会のことである。この語はまた共通性、類似性の意味にも用いられている。ブラトンは、「楽しみと苦痛の間にはある種のコイノーニアがあるべきである、と言っている。
後期ギリシャ語でコイノーニアは自分のためにのみ求める欲の深い心、プレオネクシアの反対、対照の語として用いられているが、コイノーニアは、利己的な心に対照的な、広く共有する心である。
新約聖書と同時代の一般的ギリシャ語では、 コイノーニアは三つの明確な意味を持っている。
(1) きわめて普通に「商売の仲間」。パピルス資料にある公告の中で、ある人が「私とコイノーニアのない、商売上の関係のない」兄弟と言っている。
(2) 特に「結婚」を指す。二人が「人生のコイノーニア」、すなわちすべてのものを分ちあって共に人生を送るために、結婚生活に入ることである。
(3) 人間の「神との関係」を言う。エピクテトスは、宗軟は「ゼウスとのコイノーニアを持つことを目指す」ことであると言っている。

このように一般的なギリシャ語において、コイノーニアは、人々が持つ親密な関係を言うのに用いられている。

新約聖書においては、コイノーニアは約18回現われているが、それが用いられている関係を検討して行くと、キリスト者の生活の特色となるべき交わりが、いかに広く拡がっているかがわかってくる。
1.キリスト者の生活には、「友好関係の共有」、 人々との団体の中に留まる意味のコイノーニアがある(Act.2:42、2Cor.6:14)。非常に興味深いのは、友好関係が共通のキリスト教の知識にもとづいていることである(1Jh.1:3)。キリストの友である者のみが互いに真の友人となり得るのである。
2.キリスト者の生活には、自分より不幸な人々と、「 物質的な共有をする」意味のコイノーニアがある。 パウロは、エルサレムの貧しい聖徒たちのために、教会から集めた献金に関して、3回この語を用いている(Rom.15:26、2Cor.8:4、2Cor.9:13、Heb.13:16)。キリスト者の交わりは「実際的」である。
3.キリスト者の生活には、「キリストのわざにあずかる」コイノーニアがある。パウロはピリピ人が福音のわざにあずかっていることを感謝している(Phi.1:5)。
4.キリスト者の生活には、「信仰における」交わりがある。キリスト者は孤立した単位ではなく、信ずる者の団体の一員である(Eph.3:6)。
5.キリスト者の生活には、「聖霊による交わり(コイノーニア)」がある(2Cor13:13、Phi.2:1)。キリスト者は聖霊の臨在、交わり、助け、導きの中に生きる者である。
6.キリスト者の生活には、「キリストとのコイノーニア」がある。キリスト者は神の御子イエス・キリストのコイノーニアと呼ばれる(1Cor.1:9)。この交わりは特に聖餐式を通して見出される(1Cor.10:16)。杯とパンはキリストの血とからだとのコイノーニアである。聖餐の中に、キリスト者は何よりもまずキりストとお互いとを見出す。さらにキリストとの交わりは、その苦難にあずかる交わりであり(Phi.3:10)、キリスト者は苦しむ時、その苦痛のさ中に、キリストにあずかていることを知って喜びを感ずるのである。
7.キリスト者の生活には、「神とのコイノーニア」(1Jh.1:3)がある。しかしこの交わりには倫理的な条件がある事に注意したい。やみの中を歩くことは、選ばれた者のすることではないからである(1Jh.1:6)。

キリスト者のコィノーニアは、キリスト者を互いに、またキリストと神とに結びつける絆である。コイノーニアのほかに2つの重要な類語があるので次にそれを調べたい。

第1は動詞のコイノーネインである。古典ギリシア語においてコイノーネインは、「一っのものを共有する」ことであった。たとえばすべてのものを共有する二人の人、誰かと「共同でする」、「山分けする」、さらに「共同で商売をする」ことに用いられ、まただれかと「共通の意見を持つ」こと、従って意見の一致を見ることを言う。 同時代のパピルス資料のギリシァ語においては、 3つのおもな意味があった。
(1) 誰かと「一つの行為に」共同で加わる、 たとえぱば、犯罪者を当局が追跡し、発見できない時、その犯罪に「共に加わった」者が犯人を隠しているという結論を出す。
(2) 「共通の持ちもの」を共有する、たとえば、あらゆる人間は、人間性を「共有している」と言われる。
(3) 「生活」を共有する。ある医者が自分と共に開業していた妻のために碑を立て、「私はあなただけとずベての生活を『共にした』と書いている。

新約聖書に目を向けると、このキリスト教的な共有の広い範囲に改めて気付くのである。
(1) あらゆる人は「人間性」を共有している(Heb.2:14)。 人間には、 互いに単なる人間であるという事実に基づく人聞の共同体が存在する。
(2) キリスト者は「物質」を共有する(Rom.12:13、15:27、Gal.6:6)。

新約聖書にこの語が8回現われるうち、4回はこの実際的な教えを扱っているのは注目に価する。いかなるキリスト者も、他の人々が困っている時に、多くを持ち過ぎることはできない。

(3) 「一っの行為」に共同で参加する(1Tim.5:22)。私たちは互いに、また神の仲間である。
(4) 「一つの経験」を共有(1Pet.4:13)。 信仰のために苦しむ者は、 まさにその苦しみの中において、イエス・キリストの体験にあずかるのである。

古典ギリシァ語において、コィノーノスは仲間、相手、共同所有者を意味する。パピルス資料では共同経営者の意味に広く使われている。たとえばヘルメスという人が、コルネリウスという人を、釣り池の6分の1までのコイノーノスとして雇っている。ある父親は息子に、彼らのコイノーノスがその仕事の分担を果たしていないという状態について不平をもらしている。この時代の一般ギリシャ語において、この語はほとんど「商業」語であることは注目に価する。

新約聖書には10回現われている。
(1) 「一つの行為、 一連の行為」における共同参加者。イエスは、パリサイ人が、もし先組の時代に生きていたたら、 預首者の血を流すことに 「加わって」いなかっただろうと言った(Mt.23:20、1Cor.10:18、20参照)。
(2) 「相手、仲問」の意味。ヤコブとヨハネはペテロの漁師のコイノーノイであった(Lk.5:10)。パウロはテトスを、彼のコイノーノスとシュネルゴス、仲間と協力者と呼んでいる(2Cor.8:23)。パウロはピレモンに、オネシモのことを頼んで、信仰のコイノーノスではないかと訴えている(Pile17)。キリスト者は仲間のキリスト者はすベて大きなわざの仲間であると考える。同胞を「仲間」と呼ぶことがもっとも自然である。
(3) 「一つの経験」ヘの共同参加者の意味(2Cor.1:7、Heb.10:33)。何事も私たもだけに起こるのではなく、あらゆる人々とイエス・キリストに対して起こるのである。キリストと人間、人間と人間との間には、同じ体験を経て来たというあの共感が存在するのである。
(4) 1回は、人間が神の性質にあずかっていると書かれている(2Pet.1:4)。人間は地上のことぱかりでなく、天上の栄光にもあずかるのである。

たしかにこれ以上に美しい語は存在しない。キリスト者はあらゆる人々と人間性を共有し、喜びも涙も共通の体験にあずかり、神的なものと来たるベき栄光とにあずかり、その生涯を通じて、あらゆる持ちものを人々と共有しなければならない。キリスト者は真の富が、人々に分け与えることの中にあることを知っているからである。

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