5月1日(日)
自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ19:18)
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。(ロマ13:8)
私の黙想
「わたしは主である」という言葉が付加されると隣人愛の普遍性が「共同体内部」の規則に限定されてしまう。イエスはこれを民族主義の枠を超えて人間の普遍的な倫理とした(ルカ10:25以下)。パウロはそれを再び律法化した。隣人愛は律法を破る倫理である。
5月2日(月)
エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。(ホセア11:3)
わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。(2ペトロ3:15)
私の黙想
子どもという者は幼かった頃の親子関係を覚えていないものだ。自分一人で育ったように思っている節がある。確かに幼児期の記憶は先に行くほど薄れて、それから前は何も覚えていない。このことは人間という存在を考える場合に忘れてはならない一つの重要なポイントであろう。
5月3日(火)
主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。(詩118:14)
わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:13)
私の黙想
砦(力)と歌と救いとを結ぶロゴス(論理)とは何か。「勝利」である。問題は何に勝つのか。ビンラディンを殺害して「勝利」に酔うアメリカの状況を見て空恐ろしくなる。今日はローズンゲン発足の日である。現在の私にとってローズンゲンこそ力であり、歌であり、救いである。
5月4日(水)
わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください。(詩71:18)
自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができれば、この命すら決して惜しいとは思いません。(使徒言行録20:24)
私の黙想
水野吉治君の訃報に接し、人間とは死ぬべき存在だということを実感する。若い日に受けた思想を死ぬまで一貫して貫くということは大変なことだ。
5月5日(木)
家畜のためには牧草を茂らせ、地から糧を引き出そうと働く人間のために、さまざまな草木を生えさせられる。(詩104:14)
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。(マタイ6:11)
私の黙想
さて、この「草木」とは何だろう。人間の農作業のためというが、草木は普通は農耕の妨げではないのだろうか。人間の知恵に対する神の挑戦か。「額に汗するため」の試練か。草木を食物にするための教育か。非常に面白い。神は甘くはない。
5月6日(金)
わたしに顔を向けず、かえって背を向け、しかも、災難に遭えば、「立ち上がって、わたしたちをお救いください」と言う。(エレミヤ2:27)
キリストの言葉:ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。(マタイ18:12)
私の黙想
「神さん、すんません。わてら人間ちゅうもんは、結局そんなもんでっせ。人間が造った偶像ちゅうもんは、わてらが造っただけに、毎日のことには気楽でんねん。でもなぁ、最後に頼りにしてるのんは、あんたさんやから、いざ言う時はよろしく、頼みまっせ。よろしおまんな」。
5月7日(土)
いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら。(詩84:5)
互いに愛と善行に励むように心がけ、かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。(ヘブル10:24-25)
私の黙想
特に現在詩編を勉強しているせいか、「神を賛美する」ということにかけるユダヤ人の心情には異常な凄みを感じる。ほとんど生き甲斐そのものである。先ずこの民族的心情を理解しないと旧約聖書は理解できないのではないか。
自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ19:18)
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。(ロマ13:8)
私の黙想
「わたしは主である」という言葉が付加されると隣人愛の普遍性が「共同体内部」の規則に限定されてしまう。イエスはこれを民族主義の枠を超えて人間の普遍的な倫理とした(ルカ10:25以下)。パウロはそれを再び律法化した。隣人愛は律法を破る倫理である。
5月2日(月)
エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。(ホセア11:3)
わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。(2ペトロ3:15)
私の黙想
子どもという者は幼かった頃の親子関係を覚えていないものだ。自分一人で育ったように思っている節がある。確かに幼児期の記憶は先に行くほど薄れて、それから前は何も覚えていない。このことは人間という存在を考える場合に忘れてはならない一つの重要なポイントであろう。
5月3日(火)
主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。(詩118:14)
わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:13)
私の黙想
砦(力)と歌と救いとを結ぶロゴス(論理)とは何か。「勝利」である。問題は何に勝つのか。ビンラディンを殺害して「勝利」に酔うアメリカの状況を見て空恐ろしくなる。今日はローズンゲン発足の日である。現在の私にとってローズンゲンこそ力であり、歌であり、救いである。
5月4日(水)
わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください。(詩71:18)
自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができれば、この命すら決して惜しいとは思いません。(使徒言行録20:24)
私の黙想
水野吉治君の訃報に接し、人間とは死ぬべき存在だということを実感する。若い日に受けた思想を死ぬまで一貫して貫くということは大変なことだ。
5月5日(木)
家畜のためには牧草を茂らせ、地から糧を引き出そうと働く人間のために、さまざまな草木を生えさせられる。(詩104:14)
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。(マタイ6:11)
私の黙想
さて、この「草木」とは何だろう。人間の農作業のためというが、草木は普通は農耕の妨げではないのだろうか。人間の知恵に対する神の挑戦か。「額に汗するため」の試練か。草木を食物にするための教育か。非常に面白い。神は甘くはない。
5月6日(金)
わたしに顔を向けず、かえって背を向け、しかも、災難に遭えば、「立ち上がって、わたしたちをお救いください」と言う。(エレミヤ2:27)
キリストの言葉:ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。(マタイ18:12)
私の黙想
「神さん、すんません。わてら人間ちゅうもんは、結局そんなもんでっせ。人間が造った偶像ちゅうもんは、わてらが造っただけに、毎日のことには気楽でんねん。でもなぁ、最後に頼りにしてるのんは、あんたさんやから、いざ言う時はよろしく、頼みまっせ。よろしおまんな」。
5月7日(土)
いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら。(詩84:5)
互いに愛と善行に励むように心がけ、かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。(ヘブル10:24-25)
私の黙想
特に現在詩編を勉強しているせいか、「神を賛美する」ということにかけるユダヤ人の心情には異常な凄みを感じる。ほとんど生き甲斐そのものである。先ずこの民族的心情を理解しないと旧約聖書は理解できないのではないか。