C.S.ルイス『悪魔の手紙』解説4(第25信〜第31信)
第25信
奴が今、満足しているキリスト教は非常に厄介なことに「純粋なキリスト教(Mere Christinity)」なのだ。もちろん、そこに参加しているキリスト者たちは、それぞれ独特の関心持っているが、奴らを結ぶ絆はやはり「純粋なキリスト教」なのだ。もし誰かがどうしてもキリスト教徒になりたいというなら、俺は奴らに「キリスト教プラス、アルファ(Christianitly And)」と俺が呼ぶ精神状態にして置きたいと思っている。つまり、「キリスト教と危機」とか、「キリスト教と新心理学」とか、「キリスト教と新秩序」とか、「キリスト教と神癒」とか、「キリスト教と心霊研究」とか、「キリスト教と菜食主義」とか、「キリスト教と綴字改良運動」などである。
どうしてもキリスト者にりたいという奴には、少なくとも何かひと味違ったキリスト者にさせるといい。信仰そのものの代りに、キリスト教に着色された何かの流行と置きかえ、相も変わらぬ古いもの(the Same Old Thing)を恐れる気持に働きかけるといい。
相も変わらぬ古いものヘの恐怖は、われわれが人間の心に造り出した最も貴重な情念の一つである。それは、宗教における異端、勧告における愚言、結婚における不貞、友情における移り気などは、全てここから出てくるのである。
人間は時間の中でに生きているので、現実を時間的順番でしか経験できないのだ。それはいわば「変化」を経験するということだ。前にも書いたように、敵(=神)の本質は「楽しむ」ということにある。だから飲食を楽しいものにしたように、変化も楽しいことにしたのだ。だからと言って、変化そのものを目的にするわけには行かないので、神は人間に「変化する」ということと、「変化しない」ということのバランス感覚を与えたのだ。それが「リズム」である。神は人間に四季を通して変化を楽しむ心を与え、同時にそれが毎年繰り返されることによって、同じ時期に同じ季節が到来することによって「変化しない」ことを楽しむ感覚も与えたのだ。教会には教会暦を与え、禁欲の季節と祝祭の季節とが同じリズムで繰り返される。これが神が与えた自然の変化なのだ。そこでだ。われわれはこの自然の変化を楽しむ心を取りあげ、それをねじ曲げて、絶対的な新しさへの願望を与えたのだ。要するに、繰り返えされるリズムを退屈だと感じさせ、新奇なものへの要求へと変えたのだ。これが巧く行くか否かはわれわれの手腕による。もしわれわれがボヤッとしていたら、人間はこの一月の雪、この朝の日の出、このクリスマスのブラム・プディングなどのような、目新しさとなじみ深さとの結合に満足するであろう。われわれはここにメスを入れて、変化の繰り返しというリズムの退屈さを教え、新奇さへの欲求に変えるのだ。
この要求はいろいろの意味で価値がある。先ず第1にそれは欲望を増大させる一方で、楽しみを滅らす。新奇さを求めるということはその性質上、無際限に高まるものである。そしてそれを満足させるためには金がかかる。それは必然的に貪欲さを産み、欲求不満が高まる。第2に、この欲求が強ければ強いだけ、正常な楽しみが楽しくなくなる。例えば、われわれの工作により、芸術の世界では、「低級」 な芸術も、「高級」な芸術も、同じように、より新奇で、露出的で、無軌道、残酷、高慢へと追い立てられるようになっている。
思想における流行などは、人間の意識を「本当の危険」からそらすために効果的であった。われわれは、それぞれの世代の最も無害な思想に反対する声を増大させ、最も危険な思想をその時代特有のものだとして流行らせる。つまり、洪水の危険があるときに、みんなが消化器をもって走り回せる。船の右舷が水面ギリギリに傾いているときに、大衆の関心を右舷に集中させ、人びとがそこに集まるように仕向ける。災害の時には、その危機感を煽り、危ない、危ないと騒ぎ立て、人間たちの理性的判断を鈍らせる。冷酷な時代では感傷趣味を警戒し、無気力な怠惰な時代では、品行方正を笑いものにし、好色な時代はピューリタニズムを批判させ、人びとの快楽追求を称賛させる。
いろいろやって来た中で、もっとも面白かったのは、知性が衰えたら、精神力も弱体化することを利用して、例の「相も変わらぬ古いもの」への恐怖心を一つの哲学に高めたことである。
この点で、現代ヨーロッパ思想(部分的にはわれわれも貢献してのだが)における進化論的な(生物学におけるだけではなく)あるいは歴史学的な性格が大いに役立ったのである。
敵(=神)は基本的には平凡さを愛している。私の睨んでいるところでは、敵は人間が、それは正しいことか、慎重であるべきか、出来ることか、出来ないことか、など、極めて単純なことを問題にすることを願っているようだ。そこでだ、もしわれわれが人間どもに、「それはわれわれの時代の一般的動向と一致しているか」、「それは進歩的か、反動的か」、「これは歴史が進みつつある方向に一致しているか」などの問題提起をすれば、人間どもにとって本質的に重要な問題から目をそらすことが出来るのだ。人間どもが知りたがっている人生の主要問題などへの正解なんてありはしないのだ。人間どもには未来のことなど何も知らないし、ましては未来がどうなるかは、分かっていない。人間どもは自分たちの未来は、自分たちの現在における決断によって決まるとでも思っているらしい。しかも、その決断をするためには未来予測が絶対条件になっている。だから人間どもはいくら一所懸命になったところで、それは「カラ騒ぎ」に過ぎないのだ。ここにわれわれは「潜り込む」余地があり、人間どもをわれわれが決めた方向へ進ませるには好都合なのである。その点に関して、われわれは既に大きな仕事をしてしまっているのである。
人間どもは、昔は、変化するということは、ある場合はもっと良くなることであり、ある場合はもっと悪くなることであり、あるいは良くもなく悪くもない変化であると考えられていたのだ。ところが、われわれはこの考えをほとんど全部除去してしまったのである。言い換えると、叙述形容詞「変化しない(unchanged)」を感情的な形容詞「停滞した(stagnant)」に置きかえたのである。われわれは、未来について、約束の地に行けるのは運のよい勇士たちだけで、他の人間たちはすべて、たとえ何をしようと、たとえ誰であろうと、誰でも行けるところでないと考えるように訓練したのである」。
第26信
ここで、われわれにとって重要な問題は「無私(Unselfishness」の問題である。この問題については、われわれの言語部隊が、敵の「積極的な慈愛(posive Charity)」という言葉を「消極的な無私(negative unselfishness」に差し替えた功績を認めなければならないだろう。そのおかげで、われわれは人間に、隣人の幸せのためではなくて、自分自身の幸せのために自分を捨てて無私になること、自分の利を捨てるような人間になるように教えることが出来るのだ。このことはわれわれ悪魔にとって大きなメリットである。
この作戦にとって重要なポイントは、「無私」についての男性と女性の理解の差にある。女性にとっては、無私とは主として他人の面倒をみることだと考えており、男性は、他人に面倒をかけないことだと思い込んでいるのだ。そのために、敵(=神)への奉仕に熱心な女性は、男性にとっては大変な厄介者となるし、逆に、男性は敵の陣営(註:つまり教会)での生活が長くなると、女性なら誰もするような仕事を隣人を喜ばせるために自発的にするようになる。このように、女性は隣人のために「役に立つ人間」であろうと努め、男性は隣人の縄張りを侵さないように努める。このように、男性も女性も、互いに相手をよく知らないので、それぞれお互いに根本的に利己的であると考えることになり、多分、事実そう考えているに違いないであろう。これらの行き違いに加えて、お前はさらにいくつかの行き違いを持ちこむことだってできるのだ。
性愛の魔力(the erotic enchantment)は、それぞれが「本当に」相手の希望に添いたいと願い、お互いに愛想のよさを演出する。そこでお前のなすべきことは、今は性愛の魔力から自然に発している「相互的自己犠牲」の精神を、奴らの結婚生活全体を通じて守られるべき「一つ法則」に仕上げ、将来、その魔力が消えてしまっても、持続すべきものとして設定させなさい。そうすれば、奴らは性的興奮を慈愛の心と混同し、またその興奮が永続きするものと考えるようになり、一種の法則としての無私の精神が確立し、たとえそのエネルギー源である精神が涸渇しても、われわれにとって、最も好ましい結果が生まれるであろう。片方が相手のホンネと思われる要求を思い量って、自分のホンネとは違っても賛成といい、また相手も同様に相手の願いを実現しようと思って行動する。こうなると、双方が相手の本当の要求が何か分からなくなり、結局は両方が誰も求めていないことをしてしまうことになる。これは、まさに「寛容争い」のゲームのようなものである。そこで、一つ面白い実例を紹介しておこう。
成人した子供たちのいる家庭などで、何かごく些細なこと、例えば、庭で茶を飲もうというようなことが提案されたとする。すると家族の人たちもほぼ賛成する。そんな中で一人は、明らかに反対なんだが、もちろん「無私の精神」から、「私もお茶を飲みたいと思っていたのだ」という。すると他の人たちは直ちに、彼のホンネは反対なのだと察して、「無私の精神」から、自分たちの提案を撤回する。しかし本当は、最初に言い出した者に、けちな愛他主義を押しつけられる一種のマネキン人形として自分らがあしらわれるのが嫌だからなのだ。しかし最初の提案者も折角の自分の無私道楽を巻き上げられて、気分を害するが、「みんなが、飲みたくないなら飲まなくてもいいよ」という。ところが、他の人たちは、彼が庭でお茶を飲みたいというなら、そうしようよ、主張する。それで、お互いに感情が高ぶってきて、「みんな好きなようにしたらいい。私はお茶を飲まない」という。そして両方とも、苦々しい怒りに燃えて本当の喧嘩が始まる。
どうしてこんなことになったのか、お前には分かるだろうな。もしおのおのの側が、自分の本当の願いを言い、そのために議論になったとしたら、理性と礼節を踏み外さないですんだであろう。ところが、論争が逆になって、各自相手の側の戦いを戦っているものだから、議論がややこしくなる。そしてこの喧嘩の原因は、本当は彼らの独りよがりによるのである、とか、彼らが頑固であるためとか、また過去10年間の積る遺恨のために生じたのだと思うと言い始める。要するにこれも皆、あの有名無実の、表向きの「無私の精神」によって炙り出てきたのである。つまり、どちら側も、相手側の無私の精神の安っぽさと、相手側が無理にこちらを押しこめようとしている不本意の立場を鋭く意識している。しかしお互いに、自分の方は非難される点なくいじめられているのだと感じるのである。こういう事態になるのも、要するに、人間持前の不正直さが原因なのである。
ある、物わかりのいい人が言っていたことがある。「もし人々が、無私の精神がどれほどの悪感情を引き起こすものか知っていたなら、教会の説教壇からあんなに繰り返し勧められることもないであろうに」と。
実は、この種のことは、結婚して初めて起こることではなく、むしろ婚約時代から芽を出しているのだ。その意味では、お前がそれを仕掛けるのは、今でしょう。
第27信
お前は現在のところあまり役に立っていないようだな。奴の心が敵から離れるために、奴の愛を利用するのは当たり前じゃないか。気が散ったり、イライラしたりする心をどうしたらよいかという問題が、今の奴の祈りの主要な項目になっているなどとお前が言うのは、お前の作戦の拙さをあらわしている。奴がイライラし落ち着かないときには、純粋な意志の力で心の乱れを抑えつけ、何事もなかったように、できるだけ正常な祈りをするように励ましてやれ。奴の心が乱れている状況を奴自身の問題として受け入れさせ、それを敵(=神)の前にさらけ出して祈るということは、お前の完全な敗北だ。
祈りに関するお前の作戦はすべきだと思う。奴は今、恋をしているから奴の心の中に今まで経験したことがない幸せ感が生じているであろう。そのために戦争や災害についての通常の嘆願が知的にできなくなっている。似て非なる霊性はいつも奨励されなければならない。
お前は、奴にいくら祈っても、何の結果も出ないと惑わせばいい。例えば、「表が出れば私の勝ちで、裏が出れば君の負け」という便利な論法で奴に挑戦してもいい。もし奴が祈り求めたことが起こらなければ、祈りは無益であるというもう一つの証明になる。もし起これば、奴はそれが何故実現したかという現実的な理由を探し、成る程と納得するであろう。その結果、聞き入れられた祈りも、聞かれなかった祈りと同じように、祈りは効果がないものであるということを立派に証明することになるのだ。もう一つの説明は、全てのことは世の初めから予定されていたことであって、今、ここでの祈りの結果ではないという実に信仰的な結論だって引き出せる。
第28信
お前の手紙を戦争についての下らぬたわごとで埋めるなと、俺が言った時、人間の死や、都市の破壊についての、お前の子供じみた嬉しそうな報告を聞きたくなかったからだなのだ。戦争が本当に、人間の霊的状態に関係を持っ限り、俺が十分な報告を聞きたいと思っていることは当たり前じゃないか。この点について、お前は何か勘違いしているようだな。お前は奴が住んでいる町に激しい空襲があると聞いて喜んでいるようだ。これはお前が何も分かっていないという証拠である。お前は人間が苦しみさえすれば、それを嬉しがって肝心のことを忘れてしまっている。
爆弾が落ちたら人が死ぬんだぜ。その時には奴も死ぬかもしれない。われわれは奴を死なせてはならないと思っている。奴は今はあの女性と付き合い始めて、しっかりしたキリスト者になってしまった。われわれは奴を堕落させようといろいろ企ててきたが、全て失敗してしまった。しかも、戦争という時局において、ますます神ヘの信仰を強く意識しているのだ。もし今晩、彼が死ねば、われわれが彼を失うことはほとんど確実であろう。人間にはもちろん、死を第一の悪、生存を最大の善とみなす傾向がある。しかし、それはわれわれが人間どもにそう教えたからである。われわれ自身の策略にお前自身がハマってしまってどうするんだ。要するに、われわれの狙いは奴の恋人や母親たちの願いと同じなのだ。つまり奴には生きていて貰わなければ困るんだ。奴がもし戦争で生き残れば、まだ望がある。奴が生きている間という時間そのものがお前の味方なんだ。人間どもは、中年という長くて退屈で、単調な年月を経る。人間どもにとって それは忍耐の期間なのだ。そこがわれわれにとって攻撃する時間である。逆に、その中年時代が順調であるならば、われわれはのいっそう有利な立場に立つ。次第に上昇する地位と権力、経済力、面白い仕事、広がる交友範囲等々により奴を本当に地上に腰を落ちつけた気持にさせる。そこに、われわれが付け入るチャンスはいくらでもある。
われわれにとって、時間がどんなに貴重であるかということは、敵がわれわれにごく僅かな時間しか許していない事実からわかるだろう。人類の大多数は幼年時代に死亡し、生き延びた者の中、相当数は青年時代に死ぬ。敵にとって人間の誕生は、主として人間の死のための条件として大切であり、死は専ら来世への入口として大切であることは明白である。
いいじゃないか。敵がそのつもりなら、そのほんの少しのチャンスをよりよく生かして、戦おうじゃないか。だから、あんたは奴を出来るだけ生かしておくように。
第29信
ドイツ人どもが奴の町を爆撃し、奴が危険な任務に就かなければならなくなったので、われわれの方針も再考を必要とするようだ。われわれは奴を臆病者にするべきか、それとも勇敢な男にすべきか。その場合には奴に自慢のネタを提供するという危険が伴うが。
さて、奴を勇敢な男にすることはあまり意味がないと思われる。われわれの研究所はまだそれについての解決策を発見していない。従って、敵が与えるものを利用できるだけであるが、それは敵に一種の足場を残してやるようなもので、あまりやりたくない方法である。また、奴を臆病者にすることは、かえって本当の自己認識と自己嫌悪が生まれ、それに伴って悔悟とへりくだりが現れ、奴の心は敵に向かってしまう恐れがある。困ったものだ。
第30信
俺は時折、お前が自分の使命を忘れ、自分自身の楽しみのために世に遺わされたと考えているのではないかと思うことがあるんだ。でもね、この度はお前の情けないほどいい加減な報告からの印象ではなくて、地獄警察の報告書を読んだうえでの感想なんだ。
第1回目の空襲ときの奴の振る舞いは最悪だったらしいね。
奴は何とか自分の義務だかを果たし、しかも少々余裕があったらしいが、奴の恐がり方が異常で、そのために、ご本人様は自分のことを大の臆病者と思い、ビクビクしていたというじゃないか。そういう状況においてお前がやったことといったら、奴が自分の情けなさを側にいた犬に八つ当たりし、煙草吸いすぎ、祈りを忘れたことだけだというではないか。それでお前は地獄警察から呼び出されて、絞り上げられ、おまけにきつい罰則まで受けたらしいね。お前は困り果て、叔父である俺に泣きついて、俺の口添えで、情状酌量して貰おうと思っているようだが、俺には何にも出来はしないよ。あんたが、このことをしつこく訴えるなら、情状酌量なんていうことは、敵(=神)の考えている正義観そのものじゃないか。あまりしつこいと、今度は「異端審問」にかけられるかも知れないよ。そうなったら、お前にはもう弁解の余地がなくなる。ともかく地獄の正義は純粋に現実主義であり、結果だけが問題にされることがお前にも分かるだろう。「われわれに食い物を持って帰って来い。さもなくば君自身が食い物となれ」というのが、地獄の正義だからね。
お前の手紙の中で、取り上げる値打ちがあるかも知れないとしたら、それは、奴が疲れているから、そこに巧く付け入ることが出来るかも知れないというくだりだけだろうな。それはそれで結構だが、それはお前の手に余る仕事だろうね。成る程、疲労は、その人を気弱にし、虚脱状態になり、そういう時には何か幻視のようなものをさえ見ることもある。あるいは、疲労のために怒りっぽくなったり、意地悪になったり、いら立ったりするのを、お前も見たことがあるだろう。実はそういうケースは、われわれにとってチャンスなんだ。その意味では、極度の疲労困憊よりも、適度の疲労の方が、怒りを爆発させる良いチャンスなのだ。怒りは一面、肉体的原因によることもあるが、また一面、何か別の原因にもよるものなんだ。
人間は疲れているだけでは怒るものではない。疲れている人間に、思いがけない要求がなされたときに怒る。失望感はわれわれがほんの少し手を加えるだけで被害意識に転ずることができる。何かに失敗して落ち込んでいるときとか、重大なことを諦めたときとかの疲労感はチャンスである。だから、お前は奴に偽の希望を膨らませばいい。要するに、空襲は繰り返されないだろうという希望的観測を奴の心に注入しなさい。明日の晩は、自分の寝床で、眠り、楽しい夢を見ることが出来るよと慰め、長い間の苦労ももう終わりだと告げてあげなさい。人間は普通緊張が終わろうとする瞬間、あるいは終わろうとしていると考えた瞬間に、もうこれ以上は堪えられないと感ずるものなんだ。ここで避けなければならないことは、絶対的に追い詰めないことだ。奴が臆病になった時はまさに追い詰められた状況であったのだ。たとえ奴が口では何と言おうと、心では、何が起こったとしてもチョットだけ辛抱すれば過ぎ去ると思っているものなのだ。だからその期間を出来るだけ短く暗示することだ。そうすれば、彼の「救い」(註:悪魔側への降伏)がもうほとんど目の前に来ているのだ。
奴がこの緊張状態で、果たして娘に会いそうであるか、否か、俺には分からない。もし会うとしたら、その場合には、疲労は女性たちをいっそうおしゃべりにし、男性たちをいっそう無口にするという事実を十分利用するとよい。こういう状況で男性と女性とが会えば、たとえ、恋人同士でも内心では欲求不満が増大するものだ。こういう場面で、奴の信仰を知的に責めてもほとんど効果はない。むしろ感情に訴えろ。周囲に転がっている無惨な死体を見たとき、これが本当の現実なんだと思わせろ。そうすれば、自分の宗教は、皆、幻想だったのだと奴が感じ、「本当(real)」という言葉の意味が混乱する。
人間は人を憎む場合には、ありのままの相手を見、そこには幻想はない。しかし愛する人の愛らしさは、性欲や経済的連想という「真の」核心をおおう主観的靄(もや)にすぎないのだ。戦争と貧困は「本当に」恐ろしい。平和と豊饒は、人がそれについてたまたまある感情を抱いた単なる物理的事実にすぎない。あの連中はいつもお互い同士を、「食ベてもなくならない菓子」を望んでいると非難し合っている。
奴は、適当に扱えば、人間のむき出しの醜さを見る時の感情を、現実の啓示(revelation of rearity)と考え、幸福な子供や、よい天気を見る時の感情を、単なる感傷と考えるようになるであろう。
第31信
何もかも駄目になった。俺がお前に呼びかける愛称は、最初から嘘だったのかと、泣きごとを言ってくるのは大間違いだよ。今でもお前に対する俺の愛情は、俺に対するお前の愛情と寸分違わないのだ。お前が俺を求めたように、俺はいつもお前を求めていた。二人の相違は、俺の方が強いことだ。今、彼らはお前を俺にくれると思う、でなければお前のひと切れをね。お前が好きかって? もちろん、好きだとも。これまでに食ベたどんなものにも劣らぬ珍味だと思うよ。
お前は一つの魂を指の間から逃してしまった。逃した獲物に対する激しい飢餓の咆哮が、今、騒音王国の全域にわたり、玉座の底に至るまで鳴り響いているよ。それを思うと俺は気が狂いそうだ。奴らが奴を奪い取った瞬間、何が起こったか、俺には実によく分かる。奴が初めてお前を見、それまでの奴に対するお前の役割を認めていた。しかし、もはやお前がその役割からはずされたをことを知った時、奴の目は急に晴ればれとしたのだ。 その瞬間に奴は古疵から、かさぶたが落ちたようだった。汚れて、ベとベとした、まといつく着物を、これを最後と、脱ぎ棄ててしまったようだった。畜生、あいつらが現世にあるうちに、汚れた、着心地の悪い着物を脱いで、熱い湯をざぶざぶ跳ね飛ばし、満足気な呟き声を洩らすのを見るのは、それだけで結構苦痛だ。ではこの最終的脱衣、この完全な潔めはどうだろう。
考えれば考えるほど、ますますひどい。奴はやすやすと逃げたのだ! 次第に高まる不安もなく、医者の宜告もなく、療養院もなく、手術教室もなく、人生についての間違った希望もなく、全くの瞬問的解放であった。あの瞬間、われわれの地獄が消えてしまったようだった。
(中略)
相手に裏をかかれてやっつけられた間抜けな奴め! 土から生まれたあの虫けらがどんなに自然に、新しい天国の生活に入って行ったか、お前は気がついたか。奴のすべての疑念が一瞬の間に、馬鹿らしくなってしまったのだ。あいつが言っていた独りごとが私には分かる!
(中略)
奴はお前を見ていた目で、天使たちを見た。その有様を俺は想像できる。お前は目がくらみ、見えなくなり、あいつが爆弾でやられるより、もっとひどく奴らの光に傷めつけられて、よろめいた。なんというざまだ! 霊であるお前でさえも、その前にはただ震え上がるしかできないのに、土と泥でできたこいつが、すっくと立って霊たち(=天使たち)と語り合うとは。恐らくお前は、そのことに対する恐れと不慣れのために、奴の喜悦が打ち砕かれるだろうと思っていた。だがいまいましいことだ。神々(天使たち)は人間の目には珍しいが、しかし奇異なものではない。奴はその瞬間までは、神々(天使たち)がどんな姿をしているか、かすかな概念さえ持たず、その存在さえ疑っていたのに、天使たちを見た時、ずっと天使たちを知っていたことが奴に分かり、生前において独りぼっちだと思っていた多くの時に、天使たちのおのおのが果たしてくれた役目を悟った。それで今や天使たちの一人一人に、「あなたはどなたですか」と言わずに、「それじゃ、いつもの方は『あなた』だったのですね」と言うことができた。この出会いにおける奴らの存在と言葉全部が、記憶を呼び覚ました。幼時から孤独の時にしばしば奴の心に浮かんだ奴の周囲の友人たちについてのぼんやりした意識が遂に今明らかになった。いつも記億からすり抜けてばかりいた、すベての純粋経験における中心的な音楽が今ついに戻って来た。奴の屍体の四肢が静かになる前にさえ、認識が奴を天使たちと分け隔てなくつき合えるようにした。ただお前だけが外に取り残されたのだ。
奴は天使たちだけでなく、神をも見たのだ。この動物が、寝床ではらまれたこいつが、神を仰ぐことができたのだ。お前には目のくらむ、窒息しそうな火であるものが、奴には今や涼しい光であり、明澄そのものであり、人間の姿をとっている。奴は神の前で平伏し、自分自身を悔い(self-abhorrence)、罪を告白している。しかしそれは皆、くだらぬことだ。奴はなお苦痛を受けなければならないかも知れない。しかし連中は、そういう苦痛を喜んで受け止め、地上のいかなる快楽とも引き換えようとはしないであろう。感覚、心情、知性の喜びなどすベて、かつてはお前がそれらを用いて奴を誘惑することのできたものが皆、美徳の喜びそのものでさえ、今の喜びに比べれば、比べものにならない。苦痛と快楽を超えた価値を持ち、われわれの算数がことごとく周章狼狽する世界に、奴はかかえ上げられた。もう、われわれの理解を超えた世界である。
お前のような無能誘惑者の呪いに次いで、われわれにとって最大の呪いは情報局の失敗である。奴が本当に何をしようとしているのか、われわれに分かりさえしたらなぁ! ああ! 知識というそれ自体全くいまいましい、胸の悪くなるようなものが、それでも権力のためには必要であるとは! 時折、俺はほとんど絶望的な気分におちいる。俺を支えているものは、われわれの現実主義、すなわちあらゆる血迷いごと、人気取りの言葉の放棄が最後には勝利を得るに相違ないとの確信である。ともあれ、お前のことで話をつけなければならない。
第25信
この手紙では「純粋なキリスト教(mere Christinity)」について論じられる。著者ルイスにとってこの概念は特別な意味を持っている。彼がキリスト教そのものについて論じたキリスト教本質論ともいうべき書物のタイトルは「Mere Christinity」である。その意味からもこの手紙は特別な意味を持っている。「Mere Christinity」(邦訳書名『キリスト教の世界』)の翻訳者、鈴木秀夫先生はこれを「素朴なキリスト教」と訳しておられる。それもチョットピンとこない、私は強いて定義づけると「最大公約数的キリスト教」あるいは「無色透明のキリスト教」で、かつて私は「限りなく透明に近いキリスト教」という言葉を使ったこともある。
奴が今、満足しているキリスト教は非常に厄介なことに「純粋なキリスト教(Mere Christinity)」なのだ。もちろん、そこに参加しているキリスト者たちは、それぞれ独特の関心持っているが、奴らを結ぶ絆はやはり「純粋なキリスト教」なのだ。もし誰かがどうしてもキリスト教徒になりたいというなら、俺は奴らに「キリスト教プラス、アルファ(Christianitly And)」と俺が呼ぶ精神状態にして置きたいと思っている。つまり、「キリスト教と危機」とか、「キリスト教と新心理学」とか、「キリスト教と新秩序」とか、「キリスト教と神癒」とか、「キリスト教と心霊研究」とか、「キリスト教と菜食主義」とか、「キリスト教と綴字改良運動」などである。
どうしてもキリスト者にりたいという奴には、少なくとも何かひと味違ったキリスト者にさせるといい。信仰そのものの代りに、キリスト教に着色された何かの流行と置きかえ、相も変わらぬ古いもの(the Same Old Thing)を恐れる気持に働きかけるといい。
<註:「相も変わらぬ古いもの」という言葉の内容が、明らかではないが、多分、「聖書」を指しているのではないかと推測している。聖書がなければ、異端もないし、馬鹿な勧告もないし、不倫もないし、裏切りもない。>
相も変わらぬ古いものヘの恐怖は、われわれが人間の心に造り出した最も貴重な情念の一つである。それは、宗教における異端、勧告における愚言、結婚における不貞、友情における移り気などは、全てここから出てくるのである。
人間は時間の中でに生きているので、現実を時間的順番でしか経験できないのだ。それはいわば「変化」を経験するということだ。前にも書いたように、敵(=神)の本質は「楽しむ」ということにある。だから飲食を楽しいものにしたように、変化も楽しいことにしたのだ。だからと言って、変化そのものを目的にするわけには行かないので、神は人間に「変化する」ということと、「変化しない」ということのバランス感覚を与えたのだ。それが「リズム」である。神は人間に四季を通して変化を楽しむ心を与え、同時にそれが毎年繰り返されることによって、同じ時期に同じ季節が到来することによって「変化しない」ことを楽しむ感覚も与えたのだ。教会には教会暦を与え、禁欲の季節と祝祭の季節とが同じリズムで繰り返される。これが神が与えた自然の変化なのだ。そこでだ。われわれはこの自然の変化を楽しむ心を取りあげ、それをねじ曲げて、絶対的な新しさへの願望を与えたのだ。要するに、繰り返えされるリズムを退屈だと感じさせ、新奇なものへの要求へと変えたのだ。これが巧く行くか否かはわれわれの手腕による。もしわれわれがボヤッとしていたら、人間はこの一月の雪、この朝の日の出、このクリスマスのブラム・プディングなどのような、目新しさとなじみ深さとの結合に満足するであろう。われわれはここにメスを入れて、変化の繰り返しというリズムの退屈さを教え、新奇さへの欲求に変えるのだ。
この要求はいろいろの意味で価値がある。先ず第1にそれは欲望を増大させる一方で、楽しみを滅らす。新奇さを求めるということはその性質上、無際限に高まるものである。そしてそれを満足させるためには金がかかる。それは必然的に貪欲さを産み、欲求不満が高まる。第2に、この欲求が強ければ強いだけ、正常な楽しみが楽しくなくなる。例えば、われわれの工作により、芸術の世界では、「低級」 な芸術も、「高級」な芸術も、同じように、より新奇で、露出的で、無軌道、残酷、高慢へと追い立てられるようになっている。
思想における流行などは、人間の意識を「本当の危険」からそらすために効果的であった。われわれは、それぞれの世代の最も無害な思想に反対する声を増大させ、最も危険な思想をその時代特有のものだとして流行らせる。つまり、洪水の危険があるときに、みんなが消化器をもって走り回せる。船の右舷が水面ギリギリに傾いているときに、大衆の関心を右舷に集中させ、人びとがそこに集まるように仕向ける。災害の時には、その危機感を煽り、危ない、危ないと騒ぎ立て、人間たちの理性的判断を鈍らせる。冷酷な時代では感傷趣味を警戒し、無気力な怠惰な時代では、品行方正を笑いものにし、好色な時代はピューリタニズムを批判させ、人びとの快楽追求を称賛させる。
いろいろやって来た中で、もっとも面白かったのは、知性が衰えたら、精神力も弱体化することを利用して、例の「相も変わらぬ古いもの」への恐怖心を一つの哲学に高めたことである。
<註:聖書への畏怖を、聖書学をいろいろな哲学の中の「一つの哲学」に高めることによって、聖書を骨抜きにしたことを意味するのだと思う。 >
この点で、現代ヨーロッパ思想(部分的にはわれわれも貢献してのだが)における進化論的な(生物学におけるだけではなく)あるいは歴史学的な性格が大いに役立ったのである。
敵(=神)は基本的には平凡さを愛している。私の睨んでいるところでは、敵は人間が、それは正しいことか、慎重であるべきか、出来ることか、出来ないことか、など、極めて単純なことを問題にすることを願っているようだ。そこでだ、もしわれわれが人間どもに、「それはわれわれの時代の一般的動向と一致しているか」、「それは進歩的か、反動的か」、「これは歴史が進みつつある方向に一致しているか」などの問題提起をすれば、人間どもにとって本質的に重要な問題から目をそらすことが出来るのだ。人間どもが知りたがっている人生の主要問題などへの正解なんてありはしないのだ。人間どもには未来のことなど何も知らないし、ましては未来がどうなるかは、分かっていない。人間どもは自分たちの未来は、自分たちの現在における決断によって決まるとでも思っているらしい。しかも、その決断をするためには未来予測が絶対条件になっている。だから人間どもはいくら一所懸命になったところで、それは「カラ騒ぎ」に過ぎないのだ。ここにわれわれは「潜り込む」余地があり、人間どもをわれわれが決めた方向へ進ませるには好都合なのである。その点に関して、われわれは既に大きな仕事をしてしまっているのである。
<註:これに続く次の文章はかなり分かりにくい。
「彼らは昔は、ある変化はより善き方ヘ、ある変化はより悪しき方へであり、ある変化はどちらでもない、ということを知っていた。われわれはこの知識を今までに大方取り除けてしまった。叙述形容詞「不変の」の代りに、感情的な形容詞「沈滞せる」を置きかえた。われわれは彼らを訓練して、未来を運のよい勇士たちが行ける約束の地――すベての人が、たとえ何をしようと、たとえ誰であろうと、1時間60分の速度で行けるものではなくて――と考えるようにさせたのだ」。
これでは何のことだか分からない。これの原文はこうだ。
Once they knew that some changes were for the better, and others for the worse, and others again indifferent. We have largely removed this knowledge. For the descriptive adjective “unchanged” we have substituted the emotional adjective “stagnant.” We have trained them to think of the future as a promised land which favored heroes attain ―not as something which everyone reaches at rate sixty minutes an hour, whatever de dose, whoever he is.
これを思い切って次のように訳してみた。>
「彼らは昔は、ある変化はより善き方ヘ、ある変化はより悪しき方へであり、ある変化はどちらでもない、ということを知っていた。われわれはこの知識を今までに大方取り除けてしまった。叙述形容詞「不変の」の代りに、感情的な形容詞「沈滞せる」を置きかえた。われわれは彼らを訓練して、未来を運のよい勇士たちが行ける約束の地――すベての人が、たとえ何をしようと、たとえ誰であろうと、1時間60分の速度で行けるものではなくて――と考えるようにさせたのだ」。
これでは何のことだか分からない。これの原文はこうだ。
Once they knew that some changes were for the better, and others for the worse, and others again indifferent. We have largely removed this knowledge. For the descriptive adjective “unchanged” we have substituted the emotional adjective “stagnant.” We have trained them to think of the future as a promised land which favored heroes attain ―not as something which everyone reaches at rate sixty minutes an hour, whatever de dose, whoever he is.
これを思い切って次のように訳してみた。>
人間どもは、昔は、変化するということは、ある場合はもっと良くなることであり、ある場合はもっと悪くなることであり、あるいは良くもなく悪くもない変化であると考えられていたのだ。ところが、われわれはこの考えをほとんど全部除去してしまったのである。言い換えると、叙述形容詞「変化しない(unchanged)」を感情的な形容詞「停滞した(stagnant)」に置きかえたのである。われわれは、未来について、約束の地に行けるのは運のよい勇士たちだけで、他の人間たちはすべて、たとえ何をしようと、たとえ誰であろうと、誰でも行けるところでないと考えるように訓練したのである」。
<註:これはカルヴァンの「予定論」を想像させる。 >
第26信
ここでは、「無私」の問題が取り上げられている。愛と無私との関係、これはキリスト教においても重要な課題である。老獪な悪魔は「無私」について、こう言うところから始める。
ここで、われわれにとって重要な問題は「無私(Unselfishness」の問題である。この問題については、われわれの言語部隊が、敵の「積極的な慈愛(posive Charity)」という言葉を「消極的な無私(negative unselfishness」に差し替えた功績を認めなければならないだろう。そのおかげで、われわれは人間に、隣人の幸せのためではなくて、自分自身の幸せのために自分を捨てて無私になること、自分の利を捨てるような人間になるように教えることが出来るのだ。このことはわれわれ悪魔にとって大きなメリットである。
<註:悪魔の国には「言語部隊」という組織があり、そこでは日夜、神の国側の言語を分析して、悪魔にとって有利なように改良作業をしているようです。>
この作戦にとって重要なポイントは、「無私」についての男性と女性の理解の差にある。女性にとっては、無私とは主として他人の面倒をみることだと考えており、男性は、他人に面倒をかけないことだと思い込んでいるのだ。そのために、敵(=神)への奉仕に熱心な女性は、男性にとっては大変な厄介者となるし、逆に、男性は敵の陣営(註:つまり教会)での生活が長くなると、女性なら誰もするような仕事を隣人を喜ばせるために自発的にするようになる。このように、女性は隣人のために「役に立つ人間」であろうと努め、男性は隣人の縄張りを侵さないように努める。このように、男性も女性も、互いに相手をよく知らないので、それぞれお互いに根本的に利己的であると考えることになり、多分、事実そう考えているに違いないであろう。これらの行き違いに加えて、お前はさらにいくつかの行き違いを持ちこむことだってできるのだ。
性愛の魔力(the erotic enchantment)は、それぞれが「本当に」相手の希望に添いたいと願い、お互いに愛想のよさを演出する。そこでお前のなすべきことは、今は性愛の魔力から自然に発している「相互的自己犠牲」の精神を、奴らの結婚生活全体を通じて守られるべき「一つ法則」に仕上げ、将来、その魔力が消えてしまっても、持続すべきものとして設定させなさい。そうすれば、奴らは性的興奮を慈愛の心と混同し、またその興奮が永続きするものと考えるようになり、一種の法則としての無私の精神が確立し、たとえそのエネルギー源である精神が涸渇しても、われわれにとって、最も好ましい結果が生まれるであろう。片方が相手のホンネと思われる要求を思い量って、自分のホンネとは違っても賛成といい、また相手も同様に相手の願いを実現しようと思って行動する。こうなると、双方が相手の本当の要求が何か分からなくなり、結局は両方が誰も求めていないことをしてしまうことになる。これは、まさに「寛容争い」のゲームのようなものである。そこで、一つ面白い実例を紹介しておこう。
成人した子供たちのいる家庭などで、何かごく些細なこと、例えば、庭で茶を飲もうというようなことが提案されたとする。すると家族の人たちもほぼ賛成する。そんな中で一人は、明らかに反対なんだが、もちろん「無私の精神」から、「私もお茶を飲みたいと思っていたのだ」という。すると他の人たちは直ちに、彼のホンネは反対なのだと察して、「無私の精神」から、自分たちの提案を撤回する。しかし本当は、最初に言い出した者に、けちな愛他主義を押しつけられる一種のマネキン人形として自分らがあしらわれるのが嫌だからなのだ。しかし最初の提案者も折角の自分の無私道楽を巻き上げられて、気分を害するが、「みんなが、飲みたくないなら飲まなくてもいいよ」という。ところが、他の人たちは、彼が庭でお茶を飲みたいというなら、そうしようよ、主張する。それで、お互いに感情が高ぶってきて、「みんな好きなようにしたらいい。私はお茶を飲まない」という。そして両方とも、苦々しい怒りに燃えて本当の喧嘩が始まる。
どうしてこんなことになったのか、お前には分かるだろうな。もしおのおのの側が、自分の本当の願いを言い、そのために議論になったとしたら、理性と礼節を踏み外さないですんだであろう。ところが、論争が逆になって、各自相手の側の戦いを戦っているものだから、議論がややこしくなる。そしてこの喧嘩の原因は、本当は彼らの独りよがりによるのである、とか、彼らが頑固であるためとか、また過去10年間の積る遺恨のために生じたのだと思うと言い始める。要するにこれも皆、あの有名無実の、表向きの「無私の精神」によって炙り出てきたのである。つまり、どちら側も、相手側の無私の精神の安っぽさと、相手側が無理にこちらを押しこめようとしている不本意の立場を鋭く意識している。しかしお互いに、自分の方は非難される点なくいじめられているのだと感じるのである。こういう事態になるのも、要するに、人間持前の不正直さが原因なのである。
ある、物わかりのいい人が言っていたことがある。「もし人々が、無私の精神がどれほどの悪感情を引き起こすものか知っていたなら、教会の説教壇からあんなに繰り返し勧められることもないであろうに」と。
実は、この種のことは、結婚して初めて起こることではなく、むしろ婚約時代から芽を出しているのだ。その意味では、お前がそれを仕掛けるのは、今でしょう。
第27信
この手紙では、予定説と祈りに関することが取り上げられている。で、まぁ、ややこしい議論ではあるが、だいたい論じられている内容は予想がつくであろう。
お前は現在のところあまり役に立っていないようだな。奴の心が敵から離れるために、奴の愛を利用するのは当たり前じゃないか。気が散ったり、イライラしたりする心をどうしたらよいかという問題が、今の奴の祈りの主要な項目になっているなどとお前が言うのは、お前の作戦の拙さをあらわしている。奴がイライラし落ち着かないときには、純粋な意志の力で心の乱れを抑えつけ、何事もなかったように、できるだけ正常な祈りをするように励ましてやれ。奴の心が乱れている状況を奴自身の問題として受け入れさせ、それを敵(=神)の前にさらけ出して祈るということは、お前の完全な敗北だ。
<註:この部分少々説明が必要であろう。「正常な祈りをするように励ましてやれ」という部分の「正常な祈り(the normal prayer) 」と、「神の前にさらけ出して祈る(the main theme of his prayer) 」とは別の種類の祈りである。前者はいわば朝の祈りとか夕の祈りのように定められた祈りであり、英語ではそれらを「office」と呼んでいる。それに比べて後者の祈りは、自分の個人的な問題や悩みを神の前にさらけ出して答えを求めているの特別な祈りを意味している。後者は通常「個人懺悔」(祈祷書298頁以下、カトリックではそれを「告解」という)と呼んでいるが、ここではその原型になった自由な祈りであろう。悪魔はクライエントに、「何事もなかったように通常の祈りを勧め、後者の祈りにならないように勧めているのである。>
祈りに関するお前の作戦はすべきだと思う。奴は今、恋をしているから奴の心の中に今まで経験したことがない幸せ感が生じているであろう。そのために戦争や災害についての通常の嘆願が知的にできなくなっている。似て非なる霊性はいつも奨励されなければならない。
<註:最後の「似て非なる霊性はいつも奨励されなければならない」という付加語は、文脈を先取りしすぎている。以下、似て非なる祈りと本当の祈りについての議論が展開される。>
お前は、奴にいくら祈っても、何の結果も出ないと惑わせばいい。例えば、「表が出れば私の勝ちで、裏が出れば君の負け」という便利な論法で奴に挑戦してもいい。もし奴が祈り求めたことが起こらなければ、祈りは無益であるというもう一つの証明になる。もし起これば、奴はそれが何故実現したかという現実的な理由を探し、成る程と納得するであろう。その結果、聞き入れられた祈りも、聞かれなかった祈りと同じように、祈りは効果がないものであるということを立派に証明することになるのだ。もう一つの説明は、全てのことは世の初めから予定されていたことであって、今、ここでの祈りの結果ではないという実に信仰的な結論だって引き出せる。
第28信
この手紙は面白い。人間が早死にすることと、長生きすることの、悪魔にとっての意味が論じられている。問題は、戦争によって人間が早死にすることは、悪魔にとっても悲しむべきことなんだということが主張される。
お前の手紙を戦争についての下らぬたわごとで埋めるなと、俺が言った時、人間の死や、都市の破壊についての、お前の子供じみた嬉しそうな報告を聞きたくなかったからだなのだ。戦争が本当に、人間の霊的状態に関係を持っ限り、俺が十分な報告を聞きたいと思っていることは当たり前じゃないか。この点について、お前は何か勘違いしているようだな。お前は奴が住んでいる町に激しい空襲があると聞いて喜んでいるようだ。これはお前が何も分かっていないという証拠である。お前は人間が苦しみさえすれば、それを嬉しがって肝心のことを忘れてしまっている。
爆弾が落ちたら人が死ぬんだぜ。その時には奴も死ぬかもしれない。われわれは奴を死なせてはならないと思っている。奴は今はあの女性と付き合い始めて、しっかりしたキリスト者になってしまった。われわれは奴を堕落させようといろいろ企ててきたが、全て失敗してしまった。しかも、戦争という時局において、ますます神ヘの信仰を強く意識しているのだ。もし今晩、彼が死ねば、われわれが彼を失うことはほとんど確実であろう。人間にはもちろん、死を第一の悪、生存を最大の善とみなす傾向がある。しかし、それはわれわれが人間どもにそう教えたからである。われわれ自身の策略にお前自身がハマってしまってどうするんだ。要するに、われわれの狙いは奴の恋人や母親たちの願いと同じなのだ。つまり奴には生きていて貰わなければ困るんだ。奴がもし戦争で生き残れば、まだ望がある。奴が生きている間という時間そのものがお前の味方なんだ。人間どもは、中年という長くて退屈で、単調な年月を経る。人間どもにとって それは忍耐の期間なのだ。そこがわれわれにとって攻撃する時間である。逆に、その中年時代が順調であるならば、われわれはのいっそう有利な立場に立つ。次第に上昇する地位と権力、経済力、面白い仕事、広がる交友範囲等々により奴を本当に地上に腰を落ちつけた気持にさせる。そこに、われわれが付け入るチャンスはいくらでもある。
われわれにとって、時間がどんなに貴重であるかということは、敵がわれわれにごく僅かな時間しか許していない事実からわかるだろう。人類の大多数は幼年時代に死亡し、生き延びた者の中、相当数は青年時代に死ぬ。敵にとって人間の誕生は、主として人間の死のための条件として大切であり、死は専ら来世への入口として大切であることは明白である。
<註:この手紙の最後の数行で、非常に重要なことを宣べている。ここは、いわば神と悪魔との戦いの条件のようなことが書かれている。邦訳では次のようになっている。
「われわれはただ、人類の選ばれた少数者に働きかけることが許されるだけである。というのは、人間が 「普通の人間」と言っているものは例外なのであるから。彼が天国に住まわせようとしている人間という動物のうちで、ある数名のもの――と言ってもほんの僅かだけ――が、地上の60年、あるいは70年の生涯を通して、われわれに抵抗経験を持って来たことを彼が欲していることは明らかである」。
分かったようで、分からない文章である。原文ではこうなっている。
「 We are allowed work only on a selected minority of race, for what humans call a “normal life” is exception. Apparently he wants which He is peopling Heaven to have had experience of resisting us through an earthly life of sixty or seventy years.」
これを直訳風に訳すと、以下のようになる。
「われわれはただ、人類の選ばれた少数者に働きかけることが許されるだけである。というのは、ここで、選ばれた少数者とは、「普通の人間」と言われているが、実は例外者たちなのである。明らかに、神は、人間という動物のうちの、ほんの一握りだけを天国に住まわせたいと思っているらしい。しかもその少数者とは、この地上での60年、あるいは70年の生涯を通して、われわれ悪魔に抵抗した経験を持っている人間どもだけである」。>
「われわれはただ、人類の選ばれた少数者に働きかけることが許されるだけである。というのは、人間が 「普通の人間」と言っているものは例外なのであるから。彼が天国に住まわせようとしている人間という動物のうちで、ある数名のもの――と言ってもほんの僅かだけ――が、地上の60年、あるいは70年の生涯を通して、われわれに抵抗経験を持って来たことを彼が欲していることは明らかである」。
分かったようで、分からない文章である。原文ではこうなっている。
「 We are allowed work only on a selected minority of race, for what humans call a “normal life” is exception. Apparently he wants which He is peopling Heaven to have had experience of resisting us through an earthly life of sixty or seventy years.」
これを直訳風に訳すと、以下のようになる。
「われわれはただ、人類の選ばれた少数者に働きかけることが許されるだけである。というのは、ここで、選ばれた少数者とは、「普通の人間」と言われているが、実は例外者たちなのである。明らかに、神は、人間という動物のうちの、ほんの一握りだけを天国に住まわせたいと思っているらしい。しかもその少数者とは、この地上での60年、あるいは70年の生涯を通して、われわれ悪魔に抵抗した経験を持っている人間どもだけである」。>
いいじゃないか。敵がそのつもりなら、そのほんの少しのチャンスをよりよく生かして、戦おうじゃないか。だから、あんたは奴を出来るだけ生かしておくように。
第29信
第29信ではナチス・ドイツの英国空爆の問題が取り上げられている。重要な問題であるが、それだけに慎重に取り扱わなければならない。
ドイツ人どもが奴の町を爆撃し、奴が危険な任務に就かなければならなくなったので、われわれの方針も再考を必要とするようだ。われわれは奴を臆病者にするべきか、それとも勇敢な男にすべきか。その場合には奴に自慢のネタを提供するという危険が伴うが。
さて、奴を勇敢な男にすることはあまり意味がないと思われる。われわれの研究所はまだそれについての解決策を発見していない。従って、敵が与えるものを利用できるだけであるが、それは敵に一種の足場を残してやるようなもので、あまりやりたくない方法である。また、奴を臆病者にすることは、かえって本当の自己認識と自己嫌悪が生まれ、それに伴って悔悟とへりくだりが現れ、奴の心は敵に向かってしまう恐れがある。困ったものだ。
第30信
ここでは、悪魔側はほとんど勝ち目がないと、思っており、老獪な悪魔はかなり苛ついている。
(註:最初の一段落は、ややこしい。邦訳を一読しても何のことか、分かり難いであろう。原文と読み比べると、成る程、一字一句、語義、文法的に見て丁寧に訳されていることは分かる。しかし、こういう文章は、それらの字句によって書かれていることを内容を想像して、読まないとなんのことか分からなくなる。要するに原文そのものが言葉足らずなのである。それで私なりに、経過を想像しながら、書き直してみる)。
(註:最初の一段落は、ややこしい。邦訳を一読しても何のことか、分かり難いであろう。原文と読み比べると、成る程、一字一句、語義、文法的に見て丁寧に訳されていることは分かる。しかし、こういう文章は、それらの字句によって書かれていることを内容を想像して、読まないとなんのことか分からなくなる。要するに原文そのものが言葉足らずなのである。それで私なりに、経過を想像しながら、書き直してみる)。
俺は時折、お前が自分の使命を忘れ、自分自身の楽しみのために世に遺わされたと考えているのではないかと思うことがあるんだ。でもね、この度はお前の情けないほどいい加減な報告からの印象ではなくて、地獄警察の報告書を読んだうえでの感想なんだ。
第1回目の空襲ときの奴の振る舞いは最悪だったらしいね。
<註:ここでの「最悪」とは悪魔側からの最悪で、悪魔にとって「良い振る舞い」とは、恐ろしい状況で勇敢に振る舞い、しかもそれを自慢して回ること。>
奴は何とか自分の義務だかを果たし、しかも少々余裕があったらしいが、奴の恐がり方が異常で、そのために、ご本人様は自分のことを大の臆病者と思い、ビクビクしていたというじゃないか。そういう状況においてお前がやったことといったら、奴が自分の情けなさを側にいた犬に八つ当たりし、煙草吸いすぎ、祈りを忘れたことだけだというではないか。それでお前は地獄警察から呼び出されて、絞り上げられ、おまけにきつい罰則まで受けたらしいね。お前は困り果て、叔父である俺に泣きついて、俺の口添えで、情状酌量して貰おうと思っているようだが、俺には何にも出来はしないよ。あんたが、このことをしつこく訴えるなら、情状酌量なんていうことは、敵(=神)の考えている正義観そのものじゃないか。あまりしつこいと、今度は「異端審問」にかけられるかも知れないよ。そうなったら、お前にはもう弁解の余地がなくなる。ともかく地獄の正義は純粋に現実主義であり、結果だけが問題にされることがお前にも分かるだろう。「われわれに食い物を持って帰って来い。さもなくば君自身が食い物となれ」というのが、地獄の正義だからね。
お前の手紙の中で、取り上げる値打ちがあるかも知れないとしたら、それは、奴が疲れているから、そこに巧く付け入ることが出来るかも知れないというくだりだけだろうな。それはそれで結構だが、それはお前の手に余る仕事だろうね。成る程、疲労は、その人を気弱にし、虚脱状態になり、そういう時には何か幻視のようなものをさえ見ることもある。あるいは、疲労のために怒りっぽくなったり、意地悪になったり、いら立ったりするのを、お前も見たことがあるだろう。実はそういうケースは、われわれにとってチャンスなんだ。その意味では、極度の疲労困憊よりも、適度の疲労の方が、怒りを爆発させる良いチャンスなのだ。怒りは一面、肉体的原因によることもあるが、また一面、何か別の原因にもよるものなんだ。
人間は疲れているだけでは怒るものではない。疲れている人間に、思いがけない要求がなされたときに怒る。失望感はわれわれがほんの少し手を加えるだけで被害意識に転ずることができる。何かに失敗して落ち込んでいるときとか、重大なことを諦めたときとかの疲労感はチャンスである。だから、お前は奴に偽の希望を膨らませばいい。要するに、空襲は繰り返されないだろうという希望的観測を奴の心に注入しなさい。明日の晩は、自分の寝床で、眠り、楽しい夢を見ることが出来るよと慰め、長い間の苦労ももう終わりだと告げてあげなさい。人間は普通緊張が終わろうとする瞬間、あるいは終わろうとしていると考えた瞬間に、もうこれ以上は堪えられないと感ずるものなんだ。ここで避けなければならないことは、絶対的に追い詰めないことだ。奴が臆病になった時はまさに追い詰められた状況であったのだ。たとえ奴が口では何と言おうと、心では、何が起こったとしてもチョットだけ辛抱すれば過ぎ去ると思っているものなのだ。だからその期間を出来るだけ短く暗示することだ。そうすれば、彼の「救い」(註:悪魔側への降伏)がもうほとんど目の前に来ているのだ。
奴がこの緊張状態で、果たして娘に会いそうであるか、否か、俺には分からない。もし会うとしたら、その場合には、疲労は女性たちをいっそうおしゃべりにし、男性たちをいっそう無口にするという事実を十分利用するとよい。こういう状況で男性と女性とが会えば、たとえ、恋人同士でも内心では欲求不満が増大するものだ。こういう場面で、奴の信仰を知的に責めてもほとんど効果はない。むしろ感情に訴えろ。周囲に転がっている無惨な死体を見たとき、これが本当の現実なんだと思わせろ。そうすれば、自分の宗教は、皆、幻想だったのだと奴が感じ、「本当(real)」という言葉の意味が混乱する。
<註:ここから老獪な悪魔は新米の悪魔に「本当」について説明する。その要点は「物理的事実」と「感情的効果」の違いで、安楽椅子に座ったままで水泳での高飛び込みを論じる場合と、実際に飛び込み台の上に立ったときの違いであるという。最後の部分だけを引用する。 >
人間は人を憎む場合には、ありのままの相手を見、そこには幻想はない。しかし愛する人の愛らしさは、性欲や経済的連想という「真の」核心をおおう主観的靄(もや)にすぎないのだ。戦争と貧困は「本当に」恐ろしい。平和と豊饒は、人がそれについてたまたまある感情を抱いた単なる物理的事実にすぎない。あの連中はいつもお互い同士を、「食ベてもなくならない菓子」を望んでいると非難し合っている。
奴は、適当に扱えば、人間のむき出しの醜さを見る時の感情を、現実の啓示(revelation of rearity)と考え、幸福な子供や、よい天気を見る時の感情を、単なる感傷と考えるようになるであろう。
第31信
いよいよ最後の手紙だ。出だしから、異常である。「親愛なる、本当に親愛なる、私の可愛い児(popett)、私のいとしい児(pigsnie)、ワームウッドよ」である。歯が浮くような言葉が重ねられている。ポペットもピッグスニーも、私のボキャブラリーにはない。まるで幼児に対する呼びかけの言葉のようである。最後の締め括りの言葉も、「いよいよますます、がっがつと愛情探い君の叔父 スクルーテイプより(Your increasingly revanously affectionate uncle Screwtape)」で、もう通常の意味での異常を超えている。そして、手紙の内容はさらに恐ろしい。
何もかも駄目になった。俺がお前に呼びかける愛称は、最初から嘘だったのかと、泣きごとを言ってくるのは大間違いだよ。今でもお前に対する俺の愛情は、俺に対するお前の愛情と寸分違わないのだ。お前が俺を求めたように、俺はいつもお前を求めていた。二人の相違は、俺の方が強いことだ。今、彼らはお前を俺にくれると思う、でなければお前のひと切れをね。お前が好きかって? もちろん、好きだとも。これまでに食ベたどんなものにも劣らぬ珍味だと思うよ。
<註:悪魔の世界は、なんという残虐さか!失敗した悪魔の肉を食うという。以下の手紙の内容から推察すると、ここでの主人公、新米の悪魔が担当していたクライエントは、爆死したらしい。 >
お前は一つの魂を指の間から逃してしまった。逃した獲物に対する激しい飢餓の咆哮が、今、騒音王国の全域にわたり、玉座の底に至るまで鳴り響いているよ。それを思うと俺は気が狂いそうだ。奴らが奴を奪い取った瞬間、何が起こったか、俺には実によく分かる。奴が初めてお前を見、それまでの奴に対するお前の役割を認めていた。しかし、もはやお前がその役割からはずされたをことを知った時、奴の目は急に晴ればれとしたのだ。 その瞬間に奴は古疵から、かさぶたが落ちたようだった。汚れて、ベとベとした、まといつく着物を、これを最後と、脱ぎ棄ててしまったようだった。畜生、あいつらが現世にあるうちに、汚れた、着心地の悪い着物を脱いで、熱い湯をざぶざぶ跳ね飛ばし、満足気な呟き声を洩らすのを見るのは、それだけで結構苦痛だ。ではこの最終的脱衣、この完全な潔めはどうだろう。
考えれば考えるほど、ますますひどい。奴はやすやすと逃げたのだ! 次第に高まる不安もなく、医者の宜告もなく、療養院もなく、手術教室もなく、人生についての間違った希望もなく、全くの瞬問的解放であった。あの瞬間、われわれの地獄が消えてしまったようだった。
(中略)
相手に裏をかかれてやっつけられた間抜けな奴め! 土から生まれたあの虫けらがどんなに自然に、新しい天国の生活に入って行ったか、お前は気がついたか。奴のすべての疑念が一瞬の間に、馬鹿らしくなってしまったのだ。あいつが言っていた独りごとが私には分かる!
(中略)
奴はお前を見ていた目で、天使たちを見た。その有様を俺は想像できる。お前は目がくらみ、見えなくなり、あいつが爆弾でやられるより、もっとひどく奴らの光に傷めつけられて、よろめいた。なんというざまだ! 霊であるお前でさえも、その前にはただ震え上がるしかできないのに、土と泥でできたこいつが、すっくと立って霊たち(=天使たち)と語り合うとは。恐らくお前は、そのことに対する恐れと不慣れのために、奴の喜悦が打ち砕かれるだろうと思っていた。だがいまいましいことだ。神々(天使たち)は人間の目には珍しいが、しかし奇異なものではない。奴はその瞬間までは、神々(天使たち)がどんな姿をしているか、かすかな概念さえ持たず、その存在さえ疑っていたのに、天使たちを見た時、ずっと天使たちを知っていたことが奴に分かり、生前において独りぼっちだと思っていた多くの時に、天使たちのおのおのが果たしてくれた役目を悟った。それで今や天使たちの一人一人に、「あなたはどなたですか」と言わずに、「それじゃ、いつもの方は『あなた』だったのですね」と言うことができた。この出会いにおける奴らの存在と言葉全部が、記憶を呼び覚ました。幼時から孤独の時にしばしば奴の心に浮かんだ奴の周囲の友人たちについてのぼんやりした意識が遂に今明らかになった。いつも記億からすり抜けてばかりいた、すベての純粋経験における中心的な音楽が今ついに戻って来た。奴の屍体の四肢が静かになる前にさえ、認識が奴を天使たちと分け隔てなくつき合えるようにした。ただお前だけが外に取り残されたのだ。
奴は天使たちだけでなく、神をも見たのだ。この動物が、寝床ではらまれたこいつが、神を仰ぐことができたのだ。お前には目のくらむ、窒息しそうな火であるものが、奴には今や涼しい光であり、明澄そのものであり、人間の姿をとっている。奴は神の前で平伏し、自分自身を悔い(self-abhorrence)、罪を告白している。しかしそれは皆、くだらぬことだ。奴はなお苦痛を受けなければならないかも知れない。しかし連中は、そういう苦痛を喜んで受け止め、地上のいかなる快楽とも引き換えようとはしないであろう。感覚、心情、知性の喜びなどすベて、かつてはお前がそれらを用いて奴を誘惑することのできたものが皆、美徳の喜びそのものでさえ、今の喜びに比べれば、比べものにならない。苦痛と快楽を超えた価値を持ち、われわれの算数がことごとく周章狼狽する世界に、奴はかかえ上げられた。もう、われわれの理解を超えた世界である。
お前のような無能誘惑者の呪いに次いで、われわれにとって最大の呪いは情報局の失敗である。奴が本当に何をしようとしているのか、われわれに分かりさえしたらなぁ! ああ! 知識というそれ自体全くいまいましい、胸の悪くなるようなものが、それでも権力のためには必要であるとは! 時折、俺はほとんど絶望的な気分におちいる。俺を支えているものは、われわれの現実主義、すなわちあらゆる血迷いごと、人気取りの言葉の放棄が最後には勝利を得るに相違ないとの確信である。ともあれ、お前のことで話をつけなければならない。