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ぶんやさんの記録

キリスト教の洗礼を受けた国学者松山高吉

2017-09-27 08:21:53 | 雑文
今は、もうほとんど協議会がもたれることもなくなったが、かつてYMCAとの関係で「大学キリスト者の会」という組織があり、春と夏とに協議会が開かれていた。その時の仲間たちとは、今でもメール等を通して交わりは続いている。
2004年の春に、京都の関西セミナーハウスで春の協議会がもたれた。その時のテーマが「京都におけるキリスト教」で、私も発題させていただいた。同志社大学の神学部の教授が、新島先生と同志社との関係について報告され、私は京都という土地柄と関連して、松山高吉先生のことと京都大学における京都学派とキリスト教との関係について報告した。
ここでは、その時の国学者松山高吉先生のことについて書いた部分を抜粋しておく。

http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/beaa7711238a6306aebea5b7b3d3b918

キリスト教の洗礼を受けた国学者松山高吉
「松山高吉(まつやま たかよし)という名前を聞いて、それがどういう人物であるのかということについて、ある程度の認識を持っている人は余り多くはいないと思う。しかし、かの格調の高い「文語訳聖書(旧約・新約)の翻訳作業の中心人物であり、その下訳をほとんどひとりで仕上げた人物というだけで、彼がいかにわたしたち日本人キリスト者にとって無視できない存在であるかということは分っていただけると思う。日本語聖書の翻訳作業において「東の奥野昌綱、西の松山高吉」と呼ばれた人物である。奥野は1823年生まれで、1910年に亡くなっており、松山は奥野より23歳若い1846年生まれで1935年に亡くなっている。ちょうど、翻訳作業の頃は(1874-1885)奥野が50歳頃、松山が25歳頃で、松山はそのために神戸から横浜に家族同伴で転居をしており、作業に専心していたようである。
わたしが初めて松山高吉という人物について知ったのは、大学(神学部大学院)を卒業して間もない頃、溝口靖夫先生の編集による「松山高吉」(1969年12月発行)という本を書店で見つけたときのことである。その時には、「松山高吉」という人物については関心はなく、ただこの本が神戸女学院の学長である溝口靖夫先生が編集されたということに強い興味を抱いたからである。実は、溝口先生は神戸女学院の教授で、しかも図書館の館長という肩書きで「世界宣教論」という特殊講義のために関西学院大学神学部に1年間だけであったが出講された。その講義の内容は非常に興味深く、印象的でした。その後、溝口先生は神戸女学院の学長になられ、出講は1年だけで終わりましたが、その時にわたしは大学の図書館長という職責は学長の次に偉いのだという印象を持ちました。
そういう経験があって、溝口靖夫という名前はわたしの記憶に強く残りました。だから、書店でこの名前を見たときに、直ちにそれを手に入れたのである。それ以後、溝口靖夫という名前と松山高吉という名前とはセットになってわたしの記憶の奥に納められました。
ところが、それから約20年ほどたって、わたしは京都の聖アグネス教会の牧師となり、もう一度この名前に出会ったのである。それは松山高吉先生の家族の方々がこの教会の信徒だったからであある。
また、最近、日本聖公会の歴史研究会の「歴史研究」第11号(2001年9月発行)に、「聖歌集と松山高吉」(塩谷栄二)という論文が発表された。その主旨は、なぜ松山高吉は聖公会の歴史の中で埋もれてしまったのかということで、他教派から聖公会に移った人物に対する聖公会の狭さを批判する内容で、わたしの個人的な経験との関係で非常に興味あるものでした。
松山について、まず初めに紹介したいエピソードは同志社の創立者新島との関係で、新島先生を「新島君」と親しく呼んでいたのは、彼だけであろう、と言われている。
新島と松山とは、京都に同志社を設立するについて、幾度か、ある時は夜を徹して論じあったらしく、「東京は政治の都、大阪は商業の市、京都こそ教育の都」として二人の意見は一致したと言われている。(佐々木二郎主教の言葉)
松山高吉は国学の士として研鑽し、外国の宗教であるキリスト教が日本人にとって害ある者と考え、キリスト教の本質を調査すべく、偽名を使って神戸のグリーン宣教師(アメリカンボード)に接近したが、逆にわずか2年足らずの後、キリスト教へ転向した人物である。キリスト教徒になってからの松山は彼の専門分野である国学を駆使して聖書の翻訳に並々ならない貢献をした。彼は組合教会においては、神戸教会、平安教会、洛陽教会等組合系の拠点教会において牧会をしたが、明治30年突然、聖公会に転籍し、周囲を驚かせたらしい。しかし、生涯同志社の社員であることを貫いた。聖公会では生涯「一信徒」として信仰をまっとうした。聖歌の作詞者でもあり、讃美歌59番(聖歌163、曲は異なる)、讃美歌415番(聖歌506)などが有名である。
さて、わたしがこの協議会で松山高吉を紹介したいと思った理由は、彼において、日本文化(=神道)とキリスト教とがどのように出会っているのか、ということである。そのことについて、彼自身が「神道起源」(明治27年(1894)5月同志社文学雑誌)という論文で論じている。時間の制約もあり、中心点だけを紹介する。以下の資料は原文そのままではなく、原文の格調を壊さない程度に書き改めている。
「仏法の結果かくのごとし。されど、無名無言の固有宗教は隠然として力あるが故に儒仏おのおのその本質をほしいままの顕すこと能わず、あるいは顕れ、あるいは隠れ、ついには幾分かその質を変え、その形を変じ、日本に化して社会に立ちしかば、甚だしく禍害を長くは逞しくせざりき。さはいえ、これが為に日本固有宗教の害を受けしこと少なからず。その真を埋没して誤謬の神道を多く世に出でししも、旨として仏儒によれることは前に言える神道創始の条にて明らかならん。日本にある諸宗教の情況かくのごとし。(中略)日本は宗教の荒れ地といわまし。もし、この荒れ地を救うべき真の宗教なくば、日本数千百万の精霊をいかにせん。幸いに、基督教ありてその欠乏を満たさんとす。日本固有の宗教は満面笑みを含んで歓迎すべし。今日、基督教を憎み、基督教を敵とするものは誤謬の神道、奇遇の仏儒なり。基督教を伝える者の最も注意を要するは、これらの宗教と日本固有宗教とを混同せざらんことなり。(中略)
願わくは、国と権と栄とは唯一なる全能者に帰して、日本は限りなくその恩寵に浴せんことを。
明治26年7月3日 汗を拭いつつ記し畢りぬ。

この松山の考えが当時の日本人キリスト者たちにどれほど受け入れられたかということはかなり怪しい。おそらく、何も分からなかったのではないだろうか。しかし、賢明な諸兄姉には、これ以上の解説は不要だと思う。ただ、蛇足になるかも知れないが一言だけこれに付け加えたい。最近、宮田光雄氏が「権威と服従──近代日本におけるロマ書13章──」(新教出版社)を出された。時機にかなった大変な労作である。この書の中で「明治初年のロマ書13章」(45頁)という箇所で、日本におけるほとんど最初のロマ書13章に関する論調として「七一雑報」(1887年)に連載された「説教」について触れている。「説教者の名前は不明であるが」と断った上で、「神戸教会一員」の主張を紹介している。わたしは、独断と偏見で、この「神戸教会一員」とは松山高吉のことであろうと推測する。ちょうどその頃、松山は神戸教会の牧師でしあった。

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