今週のローズンゲン2013 09/01~09/07
日々の聖句2013 09月01日(日)
主よ、あなたはわたしをご存じです。わたしを見て、あなたに対するわたしの心を、究められたはずです。(エレミヤ12:3)
あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。(ヘブル3:12)
私の黙想:
神が私の心を究める。ここでの「究める」という訳語に引っかかる。究めるとは探究する、研究するというニュアンス。神は私の心を究めなければ理解出来ないのだろうか。やはり変だ。フランシスコ会訳を見ると、「主よ、あなたがわたしを知り、わたしを見、わたしを試みられると、わたしの心があなたとともにあることがおわかりになります」とある。成る程これなら分かる。神は私の心の在り様を試みておられるのである。新改訳はもっと分かりやすい。「主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心を試されます」。ケンブリッジ注解書(ニコルソン)では、私の友人松浦君は日本語で次のように訳している。「しかしあなたは私を知っています。ああ、主よ、あなたは私を見るのです。あなたはあなた自身に対する私の献身を試みます」。これは名訳といってもいいであろう。
このエレミヤの告白の言葉はそのままイエスにも通じるし、私自身にもあてはまる。
日々の聖句2013 09月02日(月)
わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞いた。(出エジプト3:7)
パウロの手紙:わたしたちは苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。(ロマ5:3-5)
私の黙想:
本日の黙想は本日の聖句に続く次の言葉について。「その痛みを知った」。あれっ、そうだったかなと思い、口語訳を見直すと、やはり「わたしは彼らの苦しみを知っている」とある。フランシスコ会訳も新改訳でも同様「わたしも彼らの痛みを知っている」である。「知っている」というのと「知った」というのとでは雲泥の差がある。彼らの叫びを聞いたから「知った」のか、彼らの叫びを聞くまでもなく「知っているのか」。どちらが正しいのかわたしには判定する能力はない。しかし、それによって「叫び」の意味が根本的に異なってくる。
ヤハウェは弱者の「叫び」を待っている。ヤハウェは「叫び」を聞いて行動する。ヤハウェは私たちが置かれている情況をご存知でないのではない。神は私たちが祈る前から私たちの必要をご存知である。しかし神は私たちの祈りを待っている。祈りが事態を変えるのではない。神は私たちの祈りを聞き、行動を起こされる。それが聖書が語る「人格神」である。
佐藤 清一 文屋先生、おはようございます。聖書の語る人格神、とてもよく伝わってきます。
門叶 国泰 マソラ原文は「完了形」ですから、「過去」とも「現在完了」とも訳せますね。KJ&RSVが「見る」「聞く」を現在完了形で訳してきて、「知る」だけを現在形(know)で訳していることに興味を覚えます。文屋先生の問題提起に何らかの答えを出しているのでしょうね。
日々の聖句2013 09月03日(火)
ヤコブが旅を続けていると、突然、神の御使いたちが現れた。(創世記32:2)
天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。(ヘブル1:14)
私の黙想:
非常に緊迫した状況である。いよいよヤコブは兄エサウと向き合わねばならない。戦争になるのか、和解になるのか。ヤコブは斥候を派遣し、情報を集め硬軟両様の構えで望む。兄エサウは400人の兵隊を連れて迎えに来ているという。これが何を意味するのか。そういう状況の中で天使が現れた。天使は何も言わないで、そのまま去る。これはいったい何の印か。どちらかが先制攻撃を仕掛けたらまさに戦争になることまちがいなし。結局、最終的には相手を信じるか、信じないかという自己との戦いである。ヤコブは兄エサウを信じた。実際に会ってみれば、兄は弟を歓迎してくれたのである。ヤコブはさぞエサウを信じてよかったと思ったことだろう。
さて、シリア状況、ますます緊迫してきた。アメリカの空爆によって第何次が知らないが中東戦争へと展開するのか。ここで天使が現れるのか。現れた天使は何を語るのか。
日々の聖句2013 09月04日(水)
王はダニエルに答えて言った。「あなたたちの神はまことに神々の神、すべての王の主にちがいない。」(ダニエル2:47)
わたしは確信する。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ロマ8:38-39)
私の黙想:
ダニエルの聡明さに驚く王。ダニエルの知恵の源泉がヤハウェにあることを認める。信じる者の考え方(思想)と生き方(倫理)とか信じられる神の真実さの証明となり、権力者の心を動かす。このパターンが正常に働くとき国は安定する。その場合、信じる者の数は問題ではない。王の周りには真実な者ばかりでなく、権力の座を脅かす連中がうようよしている。その中で王には誰が信頼に値するかを見破る知恵が求められている。ああ、聖書の話から現実に戻ると幻滅ばかりだ。
日々の聖句2013 09月05日(木)
あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください。(詩25:5)
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)
私の黙想:
「あなたのまことに導く」という言葉は据わりが悪い。ということで、翻訳者たちはいろいろ苦労をしているようである。新改訳は「あなたの真理のうちに導く」、口語訳は「あなたのまことをもって導く」、フランシスコ改訳「わたしを忠実に歩ませ」。もうここでは語義解釈は限界を超えている。そこでこの言葉に基づきイメージ作りをする。
イメージとしては「神のまこと(アーメン)」がそこに存在して、そこに私を導き入れるということであるらしい。要するに、「神のアーメンに預かる(参与する)」ということであろうか。「神のアーメン」とは、神が神であること、そこには「神の民」と言えども参与するということは不可能であるから、むしろそこでは「神の民は神の民であること」を意味するのであろう。つまり神と人間との正常な(アーメンな)関係とは、「神は神であり、人間は人間である」という関係を目指す、そのための「道」を教えてください。
日々の聖句2013 09月06日(金)
主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。(詩37:23,24)
イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。(マタイ14:31)
私の黙想:
「人は倒れても、打ち捨てられるのではない」。「倒れて、打ち捨てられる」とはどういう状況を示す言葉なのだろう。「転んで地面に倒れても放っときはしないよ」というイメージが浮かぶ。確か口語訳はそうではなかった筈だと思って調べてみると、「たといその人が倒れても、全く打ち伏せられない」で、かなり情景は違う。フランシスコ会訳ではもっとはっきりする。「倒れかけても、倒れ伏すことはない」。老人がよろめいたとき、すぐに支えてくれる人がいると助かる。転んでしまってからでは困る。新改訳の「まっさかさまに倒されたりはしない」は強烈すぎて情景が浮かばない。我田引水で困るが、祈祷書の「正しい人はつまづいても倒れない。主が彼を支えておられる」は最も体験的で美しい言葉である。
日々の聖句2013 09月07日(土)
主は恵みの業と裁きを愛す。(詩33:5)
パウロの手紙:キリストによる罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。(使徒13:38-39)
私の黙想:
聖書を読む場合、いろいろな翻訳を比較するということを知らない人が、新共同訳だけを読んだら、この文章をどう思うのだろうか。「恵みの業」と「裁き」とをどう受け止めるのだろうか。「恵み深い裁き」が「人を裁くということは恵みの業」なのだと理解し、神様はそういうことを愛されるのだと判断するのだろうか。「神のご趣味は恵みの業と裁判だ」というのか。まぁ、馬鹿らしいから考えないことにする。むしろ、この句は口語訳を始めその他の訳もほとんどすべて「主は正義と公正とを愛される」と訳している。この場合の「愛される」とは神の本質を示す言葉であり、慈しみに満ちた世界の実現は神の正義と公正よるのだということを宣言している。ローズンゲンの編者の切り出し方も不十分である。
日々の聖句2013 09月01日(日)
主よ、あなたはわたしをご存じです。わたしを見て、あなたに対するわたしの心を、究められたはずです。(エレミヤ12:3)
あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。(ヘブル3:12)
私の黙想:
神が私の心を究める。ここでの「究める」という訳語に引っかかる。究めるとは探究する、研究するというニュアンス。神は私の心を究めなければ理解出来ないのだろうか。やはり変だ。フランシスコ会訳を見ると、「主よ、あなたがわたしを知り、わたしを見、わたしを試みられると、わたしの心があなたとともにあることがおわかりになります」とある。成る程これなら分かる。神は私の心の在り様を試みておられるのである。新改訳はもっと分かりやすい。「主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心を試されます」。ケンブリッジ注解書(ニコルソン)では、私の友人松浦君は日本語で次のように訳している。「しかしあなたは私を知っています。ああ、主よ、あなたは私を見るのです。あなたはあなた自身に対する私の献身を試みます」。これは名訳といってもいいであろう。
このエレミヤの告白の言葉はそのままイエスにも通じるし、私自身にもあてはまる。
日々の聖句2013 09月02日(月)
わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞いた。(出エジプト3:7)
パウロの手紙:わたしたちは苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。(ロマ5:3-5)
私の黙想:
本日の黙想は本日の聖句に続く次の言葉について。「その痛みを知った」。あれっ、そうだったかなと思い、口語訳を見直すと、やはり「わたしは彼らの苦しみを知っている」とある。フランシスコ会訳も新改訳でも同様「わたしも彼らの痛みを知っている」である。「知っている」というのと「知った」というのとでは雲泥の差がある。彼らの叫びを聞いたから「知った」のか、彼らの叫びを聞くまでもなく「知っているのか」。どちらが正しいのかわたしには判定する能力はない。しかし、それによって「叫び」の意味が根本的に異なってくる。
ヤハウェは弱者の「叫び」を待っている。ヤハウェは「叫び」を聞いて行動する。ヤハウェは私たちが置かれている情況をご存知でないのではない。神は私たちが祈る前から私たちの必要をご存知である。しかし神は私たちの祈りを待っている。祈りが事態を変えるのではない。神は私たちの祈りを聞き、行動を起こされる。それが聖書が語る「人格神」である。
佐藤 清一 文屋先生、おはようございます。聖書の語る人格神、とてもよく伝わってきます。
門叶 国泰 マソラ原文は「完了形」ですから、「過去」とも「現在完了」とも訳せますね。KJ&RSVが「見る」「聞く」を現在完了形で訳してきて、「知る」だけを現在形(know)で訳していることに興味を覚えます。文屋先生の問題提起に何らかの答えを出しているのでしょうね。
日々の聖句2013 09月03日(火)
ヤコブが旅を続けていると、突然、神の御使いたちが現れた。(創世記32:2)
天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。(ヘブル1:14)
私の黙想:
非常に緊迫した状況である。いよいよヤコブは兄エサウと向き合わねばならない。戦争になるのか、和解になるのか。ヤコブは斥候を派遣し、情報を集め硬軟両様の構えで望む。兄エサウは400人の兵隊を連れて迎えに来ているという。これが何を意味するのか。そういう状況の中で天使が現れた。天使は何も言わないで、そのまま去る。これはいったい何の印か。どちらかが先制攻撃を仕掛けたらまさに戦争になることまちがいなし。結局、最終的には相手を信じるか、信じないかという自己との戦いである。ヤコブは兄エサウを信じた。実際に会ってみれば、兄は弟を歓迎してくれたのである。ヤコブはさぞエサウを信じてよかったと思ったことだろう。
さて、シリア状況、ますます緊迫してきた。アメリカの空爆によって第何次が知らないが中東戦争へと展開するのか。ここで天使が現れるのか。現れた天使は何を語るのか。
日々の聖句2013 09月04日(水)
王はダニエルに答えて言った。「あなたたちの神はまことに神々の神、すべての王の主にちがいない。」(ダニエル2:47)
わたしは確信する。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ロマ8:38-39)
私の黙想:
ダニエルの聡明さに驚く王。ダニエルの知恵の源泉がヤハウェにあることを認める。信じる者の考え方(思想)と生き方(倫理)とか信じられる神の真実さの証明となり、権力者の心を動かす。このパターンが正常に働くとき国は安定する。その場合、信じる者の数は問題ではない。王の周りには真実な者ばかりでなく、権力の座を脅かす連中がうようよしている。その中で王には誰が信頼に値するかを見破る知恵が求められている。ああ、聖書の話から現実に戻ると幻滅ばかりだ。
日々の聖句2013 09月05日(木)
あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください。(詩25:5)
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)
私の黙想:
「あなたのまことに導く」という言葉は据わりが悪い。ということで、翻訳者たちはいろいろ苦労をしているようである。新改訳は「あなたの真理のうちに導く」、口語訳は「あなたのまことをもって導く」、フランシスコ改訳「わたしを忠実に歩ませ」。もうここでは語義解釈は限界を超えている。そこでこの言葉に基づきイメージ作りをする。
イメージとしては「神のまこと(アーメン)」がそこに存在して、そこに私を導き入れるということであるらしい。要するに、「神のアーメンに預かる(参与する)」ということであろうか。「神のアーメン」とは、神が神であること、そこには「神の民」と言えども参与するということは不可能であるから、むしろそこでは「神の民は神の民であること」を意味するのであろう。つまり神と人間との正常な(アーメンな)関係とは、「神は神であり、人間は人間である」という関係を目指す、そのための「道」を教えてください。
日々の聖句2013 09月06日(金)
主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。(詩37:23,24)
イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。(マタイ14:31)
私の黙想:
「人は倒れても、打ち捨てられるのではない」。「倒れて、打ち捨てられる」とはどういう状況を示す言葉なのだろう。「転んで地面に倒れても放っときはしないよ」というイメージが浮かぶ。確か口語訳はそうではなかった筈だと思って調べてみると、「たといその人が倒れても、全く打ち伏せられない」で、かなり情景は違う。フランシスコ会訳ではもっとはっきりする。「倒れかけても、倒れ伏すことはない」。老人がよろめいたとき、すぐに支えてくれる人がいると助かる。転んでしまってからでは困る。新改訳の「まっさかさまに倒されたりはしない」は強烈すぎて情景が浮かばない。我田引水で困るが、祈祷書の「正しい人はつまづいても倒れない。主が彼を支えておられる」は最も体験的で美しい言葉である。
日々の聖句2013 09月07日(土)
主は恵みの業と裁きを愛す。(詩33:5)
パウロの手紙:キリストによる罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。(使徒13:38-39)
私の黙想:
聖書を読む場合、いろいろな翻訳を比較するということを知らない人が、新共同訳だけを読んだら、この文章をどう思うのだろうか。「恵みの業」と「裁き」とをどう受け止めるのだろうか。「恵み深い裁き」が「人を裁くということは恵みの業」なのだと理解し、神様はそういうことを愛されるのだと判断するのだろうか。「神のご趣味は恵みの業と裁判だ」というのか。まぁ、馬鹿らしいから考えないことにする。むしろ、この句は口語訳を始めその他の訳もほとんどすべて「主は正義と公正とを愛される」と訳している。この場合の「愛される」とは神の本質を示す言葉であり、慈しみに満ちた世界の実現は神の正義と公正よるのだということを宣言している。ローズンゲンの編者の切り出し方も不十分である。