朝日新聞の夕刊で昨日から始まった「誰が日本と戦ったか──満州の抗日ゲリラ」の連載が始まった。最初の記事で、旧満州で抗日ゲリラ戦を指揮し、30歳の若さで処刑された趙一曼(本名李珅泰)のことが紹介された。彼女は当時日本軍からはかなり恐れられていた反満抗日闘士であり、彼女が処刑されたのが1936年5月で、その1ヶ月後にわたしは旧満州新京市で生まれた。
趙一曼女史は裕福な医師の家庭に生まれたが、「纏足」という習慣を断固拒否したとのことである。わたしたちの家庭で住み込みで家事を手伝ってくれていた女性も纏足をしていた。これはかなり厳しい習慣で、まだ小さい頃から布を足に巻き付けて、足を大きくしないというものである。そうすると、大人になってもいわゆる「ヨチヨチ歩き」しかできなくなり、それが「可愛い」ということで、セックスアピールになり、当時の良家の常識として女子には強制したらしい。本当の理由は「逃走防止」ということであったものと言われている。中国における女性の解放運動は先ず「纏足」の習慣の拒否から始まった。
当時の「満州日々新聞」では彼女のことを「女匪賊」と表現している。その頃、満州に住んでいた日本人が恐れられていたのは、匪賊と八路軍で、それが何を意味するのかということについて何にも知らない子どもでも「匪賊」とか「八路軍」という言葉だけは耳にたこができるほど聞かされたものである。
わたしの家族は敗戦の直前、ソ連軍の参戦という「秘密情報」により、昭和20年8月8日の夜、新京駅より無蓋貨物車に詰め込まれて脱出したので、その後の新京の状況は全く知らないのであるが、かなりひどい状況であったらしい。最近、時々中国のことが話題になり、当時のことを思い出すが、とても貴重な写真集をWeb上で発見しました。
http://manshusite.hp.infoseek.co.jp/photoarakaruto.htm
趙一曼女史は裕福な医師の家庭に生まれたが、「纏足」という習慣を断固拒否したとのことである。わたしたちの家庭で住み込みで家事を手伝ってくれていた女性も纏足をしていた。これはかなり厳しい習慣で、まだ小さい頃から布を足に巻き付けて、足を大きくしないというものである。そうすると、大人になってもいわゆる「ヨチヨチ歩き」しかできなくなり、それが「可愛い」ということで、セックスアピールになり、当時の良家の常識として女子には強制したらしい。本当の理由は「逃走防止」ということであったものと言われている。中国における女性の解放運動は先ず「纏足」の習慣の拒否から始まった。
当時の「満州日々新聞」では彼女のことを「女匪賊」と表現している。その頃、満州に住んでいた日本人が恐れられていたのは、匪賊と八路軍で、それが何を意味するのかということについて何にも知らない子どもでも「匪賊」とか「八路軍」という言葉だけは耳にたこができるほど聞かされたものである。
わたしの家族は敗戦の直前、ソ連軍の参戦という「秘密情報」により、昭和20年8月8日の夜、新京駅より無蓋貨物車に詰め込まれて脱出したので、その後の新京の状況は全く知らないのであるが、かなりひどい状況であったらしい。最近、時々中国のことが話題になり、当時のことを思い出すが、とても貴重な写真集をWeb上で発見しました。
http://manshusite.hp.infoseek.co.jp/photoarakaruto.htm