人間の記憶というものは不思議なものである。すっかり忘れてしまったと思っていたことも、一つのことをきっかけに、次々と芋づる式に思い出してくるものである。昭和15年頃の「新京(現長春)市街風景」の写真集(http://manshusite.hp.infoseek.co.jp/photoarakaruto.htm)を見ていると、記憶の奥底から「懐かしさ」が甦ってくる。
わたし自身の幼少時代の記憶というものがどこまでさかのぼれるのか、ということを考えると、どうも「紀元(皇紀)2600年」のことを思い出す。いろいろ思い出してみるが、これが最も古そうな思い出である。
この「紀元2600年の祝賀行事」は、「内地」(当時満州に住んでいた日本人は日本のことをそう呼んでいた。満州は「外地」ではあるが「日本」であるという意識があったのだろう。)での祝賀行事にあわせて、新京市においても盛大に行われた。
1940年のことである。非常に盛大な祭で、市内パレードや「花電車」なども出ていた。そういう歴史的なことは省略して、わたし自身のごく個人的な思い出は、その時のパレードを沿道で日の丸の旗など振って見ていたのだと思うが、ただ一つ非常に鮮明に覚えていることは、父親の肩車に乗って、野外音楽堂でオーケストラの演奏を「見た」光景である。不思議なことに、これだけははっきりしている。その時、指揮者が一段高い所に立って、タクトを振っている姿を今でも思い出す。当時4歳であったわたしには、オーケストラの音が指揮者の振るタクトの先から音が出ているような気がして不思議に思った。この思いは今でもオーケストラの演奏を聴くとき、そう思う。
当時、父親は新京市の中心にある新京児玉公園(現勝利公園)の園長をしており、よく家族で散歩をしたものである。公園にはポニーなどもおり、乗せてもらったこともある。写真集には児玉公園の池が載っているが、母親はボートを漕ぐのが好きで、よく連れて行ってもらった。
わたし自身の幼少時代の記憶というものがどこまでさかのぼれるのか、ということを考えると、どうも「紀元(皇紀)2600年」のことを思い出す。いろいろ思い出してみるが、これが最も古そうな思い出である。
この「紀元2600年の祝賀行事」は、「内地」(当時満州に住んでいた日本人は日本のことをそう呼んでいた。満州は「外地」ではあるが「日本」であるという意識があったのだろう。)での祝賀行事にあわせて、新京市においても盛大に行われた。
1940年のことである。非常に盛大な祭で、市内パレードや「花電車」なども出ていた。そういう歴史的なことは省略して、わたし自身のごく個人的な思い出は、その時のパレードを沿道で日の丸の旗など振って見ていたのだと思うが、ただ一つ非常に鮮明に覚えていることは、父親の肩車に乗って、野外音楽堂でオーケストラの演奏を「見た」光景である。不思議なことに、これだけははっきりしている。その時、指揮者が一段高い所に立って、タクトを振っている姿を今でも思い出す。当時4歳であったわたしには、オーケストラの音が指揮者の振るタクトの先から音が出ているような気がして不思議に思った。この思いは今でもオーケストラの演奏を聴くとき、そう思う。
当時、父親は新京市の中心にある新京児玉公園(現勝利公園)の園長をしており、よく家族で散歩をしたものである。公園にはポニーなどもおり、乗せてもらったこともある。写真集には児玉公園の池が載っているが、母親はボートを漕ぐのが好きで、よく連れて行ってもらった。