ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

旧満州での思い出(10) 故郷の山河

2008-05-30 08:37:04 | 旧満州の思い出
初めに断っているように、旧満州時代のことを思い出すまま、断片的に書きとめておくというのが、このシリーズの特徴である。
今朝、目が覚めて窓から雲に覆われている山を見ていたとき、フッと思い出したことがある。わたしは10歳まで旧満州の新京市(現長春)で過ごしたが、自宅、あるいは自宅付近から「山」はまったく見えなかった。東西南北、どの方向を見ても、近くはもちろん遠くにも山は見えていなかった。言い替えると、わたしは10歳まで「山」を見ないで過ごしたということになる。「故郷の山河」という言い方があるが、わたしにとって故郷には山河はない。
敗戦の直前、新京市を夜中に脱出して朝鮮半島に向かうとき、いくつもの「山」を見たはずだし、トンネルを抜けたはずだが、あまりにも緊迫した状況なので、具体的なイメージとして「山」も「川」も記憶に残っていない。しかし、日常生活の中で「山」という言葉がなかったわけではない。そのときの「山」とは「匪賊や馬賊」が住む怖いところというイメージであった。だから、わたしは今でも「山」は怖い。今から思うと、彼らは、日本人によって自分たちの「領土」を奪われ、郷土を追われ、山岳地帯に身を潜めて、時が来るのを待っていた人々であった。
わたしたちが生活圏内で山を見、川を見たのは北朝鮮平壌の収容所の中からで、そこから見えた山はほとんどが裸山であった。「日本人が木を切って、持っていってしまった」というのが現地の人々の言葉であった。収容所の近くに川が流れていたが、堤防に邪魔されて水が流れるのを見てはいない。ただ、一度だけ、確か洪水の時、何かの理由で堤防の上から黄色い濁流が今にも堤防を決壊させそうな勢いで流れるのを見たことがある。従って、「川」もわたしにとって「なつかしい春の小川」ではなく、何もかも呑み込む濁流である。日本に帰って来て、佐世保港に上陸し、大阪に向かうすし詰めの汽車の中から、初めて「故郷の山河」という言葉を経験した。

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