地図を見るとよくわかるが、岡山市東区瀬戸町観音寺(以下、地名の「岡山市東区瀬戸町」は略す。)から万富まではほとんど直線的な道路が約7kmも続いている(県道96号線(岡山赤穂線))。途中、瀬戸~光明谷のところは湾曲しているが、瀬戸中学校と瀬戸高校の間の線を延ばせば直線的になりそうに思える(ただし、現地に行くとはっきりせず、自信はない。)。また、森末のところで200mほど北に平行移動しており、現在道とは異なるかもしれない。条里制の線とも多少ズレているようだ。
「上道郡ルート」を古代山陽道と考えるのは、旧瀬戸町内の直線的道路だけではない。「珂磨駅家」が現・赤磐市松木付近であれば、単に地図の上に線を引くだけなら「上道郡ルート」のほうが自然に思える。もう1つは、旧瀬戸町内に白鳳~奈良時代の廃寺遺跡がいくつか発見されていることである。たとえば、塩納に「吉岡廃寺」、森末に「妙興寺廃寺」、南方に「妙見下廃寺・五反田廃寺」、坂根に「夏井遺跡」がある。ひょっとすると、どれかが磐梨郡衙だったかもしれない。ちなみに、「赤坂郡ルート」の旧山陽町には、(立派な古墳はたくさんあるが)古代寺院は備前国分寺・国分尼寺くらいしか発見されていない。中村太一氏は、高橋美久二氏の説を引用して、出土した瓦の分類からみて、原初の国分寺は賞田廃寺など上道郡内の古代寺院の中にあり、後に赤坂郡に移転した可能性を示唆している。もう1つ、その名のとおり「上道郡ルート」であれば、備前国の「上道」、備中国の「下道」が対になることも指摘している。
以上のように(他に「条里余剰帯」の分析なども行われている。)、素人目にみてもかなり説得的なのだが、やはり問題は万富の先(東)である。吉井川が岸壁を洗う「熊野の岸険(ほき)」と呼ばれた難所で、現在は県道96号線で簡単に越えられるが、古代にはどうだっただろうか。中村氏は、かつては岸壁の下を通れた可能性も指摘するが、何とも言えない感じである。安全に通るなら、城山の北を峠越えするルートを開削したものと思う。その道があったかどうかは、わからない(なお、「堰爪神社と石の懸樋・百間の石樋」(2008年11月18日記事)も参照。)。
写真上:吉岡廃寺の塔心礎。今は万富公民館横の公園に置かれている。
写真下:奥の緑の屋根・大きな煙突の建物が「瀬戸クリーンセンター」。その手前に白い帯状に見えるのが、山陽自動車道。赤磐市徳富方面に峠越えするのなら、「瀬戸クリーンセンター」の右側(東)辺りか。
「上道郡ルート」を古代山陽道と考えるのは、旧瀬戸町内の直線的道路だけではない。「珂磨駅家」が現・赤磐市松木付近であれば、単に地図の上に線を引くだけなら「上道郡ルート」のほうが自然に思える。もう1つは、旧瀬戸町内に白鳳~奈良時代の廃寺遺跡がいくつか発見されていることである。たとえば、塩納に「吉岡廃寺」、森末に「妙興寺廃寺」、南方に「妙見下廃寺・五反田廃寺」、坂根に「夏井遺跡」がある。ひょっとすると、どれかが磐梨郡衙だったかもしれない。ちなみに、「赤坂郡ルート」の旧山陽町には、(立派な古墳はたくさんあるが)古代寺院は備前国分寺・国分尼寺くらいしか発見されていない。中村太一氏は、高橋美久二氏の説を引用して、出土した瓦の分類からみて、原初の国分寺は賞田廃寺など上道郡内の古代寺院の中にあり、後に赤坂郡に移転した可能性を示唆している。もう1つ、その名のとおり「上道郡ルート」であれば、備前国の「上道」、備中国の「下道」が対になることも指摘している。
以上のように(他に「条里余剰帯」の分析なども行われている。)、素人目にみてもかなり説得的なのだが、やはり問題は万富の先(東)である。吉井川が岸壁を洗う「熊野の岸険(ほき)」と呼ばれた難所で、現在は県道96号線で簡単に越えられるが、古代にはどうだっただろうか。中村氏は、かつては岸壁の下を通れた可能性も指摘するが、何とも言えない感じである。安全に通るなら、城山の北を峠越えするルートを開削したものと思う。その道があったかどうかは、わからない(なお、「堰爪神社と石の懸樋・百間の石樋」(2008年11月18日記事)も参照。)。
写真上:吉岡廃寺の塔心礎。今は万富公民館横の公園に置かれている。
写真下:奥の緑の屋根・大きな煙突の建物が「瀬戸クリーンセンター」。その手前に白い帯状に見えるのが、山陽自動車道。赤磐市徳富方面に峠越えするのなら、「瀬戸クリーンセンター」の右側(東)辺りか。