備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム106.古代山陽道を探す(その10・福輪寺縄手Ⅰ)

2008-12-16 21:30:15 | Weblog
「都月坂」を北から南に越えてくると、津島小学校の横に出てくるが、ここはまだ山腹で、もう少し下に下りると、東西に概ね直線的な道路があり、これが岡山大学キャンパスの北端を通る道路に繋がる。これが、多分「福輪寺縄手」と称される中世山陽道と思われる。「縄手」というのは、縄を張ったような直線的な道をいい、「睨み石」の項(2008年11月27日記事)で出てきた「ナワメスジ」と同旨だろう。
「福輪寺(福林寺)」というのは、かつてこの地に存在した真言宗の古刹で、正慶5年(1336年)に大覚聖人との法論に敗れ、日蓮宗に改修して寺号も「妙善寺」と改めたという。「妙善寺」は寛文5年(1665年)に不受不施派禁制により事実上廃寺となったが、明治30年(1897年)に再建された(写真上)。現在は、岡山市内にある珍しい日蓮宗不受不施派の大寺となっている(不受不施派なので境内に賽銭箱がない。)。
さて、津島小学校から東に約600m進むと、「福居公会堂」があり、その奥に「天津神社」(通称「福居天神社」)がある(写真中)。鳥居の扁額は「天神社」となっており、一説には当神社が式内社「天神社」であるという。


masayuki29さんのHPから(妙善寺の歴代と由来):http://homepage.mac.com/masayuki29/Personal35.html

玄松子さんのHPから(天神社(岡山市北区津島福居)):http://www.genbu.net/data/bizen/ten2_title.htm

岡山県神社庁のHP(天津神社(岡山市北区津島福居)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01004


写真上:妙善寺(場所:岡山市北区津島本町7-1)


写真中:福居天神社


写真下:福居天神社前から東(岡山大学方面)を見る

コラム105.古代山陽道を探す(その9・都月坂)

2008-12-15 23:13:08 | Weblog
岡山市北区富原から笹ヶ瀬川を渡ると、半田山にぶつかる。半田山の南麓には「福輪寺縄手」という直線的な道があったことがわかっていたので、以前は「都月坂」を越えて「福輪寺縄手」に連絡することが想定されていた。
「都月坂」といえば、前期古墳時代(3世紀?)の特殊器台形埴輪が出土し、「都月型」の名のもととなった「都月坂1号墳」で有名。そして、少し西に式内社「尾治針名真若比神社」(2008年6月21日記事)がある。同神社が創建時から現在地にあったかどうかは不明だが、半田山という名が「針田山」から転じたとの説もあり、古くから知られていたものと思われる。
そして、現在も舗装された道路で峠を越えられるのだが、途中道幅が狭いところがあり、距離は短いものの、その分、相当な急坂である(バイクのイラストに「スピード出し過ぎ注意」の看板がたくさん立っている。)。もし、この坂を越えていたとすると、かなりの難所だっただろうと思われる。


写真上:都月坂上り口(南麓)。左側のフェンスは津島小学校。垂直に立っている案内板の柱と比較すれば、急坂の角度がわかる。


写真下:都月坂の峠から南側を眺める。正面、帯状に紅葉しているところが岡山県陸上競技場(桃太郎スタジアム)で、考古学ファンには「津島遺跡」。

コラム104.古代山陽道を探す(その8・笹ヶ瀬川~三野)

2008-12-14 21:57:49 | Weblog
古代山陽道は、「津高駅家」跡と目される「富原遺跡」(岡山市北区富原)前から、そのまま直進して笹ヶ瀬川(写真上)を渡り、更に直進する。現在では、川を渡る道路が直線的でなく、周辺が住宅地化されているため、笹ヶ瀬川の左岸(東岸)との連絡が明確でないが、地図に定規を当ててみると、日蓮正宗「妙霑寺(みょうでんじ)」の辺りに出るように思われる。
古代山陽道は半田山の北を通っていただろうとしたのは故足利健亮氏(京大教授)で、その後、実際に半田山山腹に直線古道が発見された(乗岡実「岡山市津高確認の直線古道について」(「古代交通研究第2巻」所収))。現在、国道53号線(旧道)から「津高団地」(岡山市北区津高台)に向かう道路があるが、どうやらこの道路ではなく、山腹にわざわざ道路を作って直線的に進んでいたようなのである。発見された直線古道が古代山陽道であるとは断定されていないが、あえてこんなことをするのは古代道路だから、という言い方もできよう。
なぜ山中を通るのかということについては、古代道路は単に国家の権威を見せつけるためだけでなく、兵員の移動のためだったからという説もある。道幅を広くしたのもそうだが、谷を通るより山を通るほうが待ち伏せの攻撃を受けにくいという利点がある。ちなみに、古代道路は兵部省の管轄だった。
さて、地図に定規を当てて更に直線的に進むと、ダイミ山(160m)という峰の北を抜けて、ちょうど岡山理科大学(岡山市北区理大町)キャンパスの北端にぶつかる。ここは町境も東西に直線的になっている。更に進むと陸上自衛隊三軒屋駐屯地にぶつかり、道路もわからなくなっているという。なお、都月坂より東は入山禁止になっているようで、地図で想像するしかないが、理大町から東に下りてくると、式内社「天神社」(岡山市北区三野本町。2008年6月20日記事参照)が鎮座する妙見山の西側へ出る。そこから「牟佐の渡し」に向かうなら妙見山の北側へ進み、「釣の渡し」(岡山市中区今在家方面)に向かうなら妙見山の南側へ進む。
なお、自衛隊駐屯地の地名は「宿」で、その東には「宿本町」もあり、中世以降は宿場町であったと思われる。


写真上:笹ヶ瀬川右岸から半田山を望む。手前の峰は「烏山」と呼ばれている。


写真中:「妙霑寺」の向かい側辺りから半田山方面を見る。直進すれば、いずれ山越えをすることになる。


写真下:「三野公園南」交差点付近から北を見る。旭川に左から妙見山がせり出している。奥が牟佐方面で、右端の山が龍ノ口山(旭川左岸)。

コラム103.古代山陽道を探す(その7・白山神社)

2008-12-13 20:10:47 | Weblog
古代山陽道は「津高駅家」と目される「富原遺跡」の前を通り、更に直進して笹ヶ瀬川を渡る。そして、そのまま半田山に向かい、山越えをして岡山市北区三野に出たらしい。
しかし、以前は半田山の南麓を通っていたと思われていた(この道を「福輪寺縄手」という。)。この2つのルートについては別項にするが、富原から半田山の南麓に向かうルートも従来は、笹ヶ瀬川畔を通るか、「都月坂」を越える道が想定されていた。
現在では、もう1つのルートとして、「富原遺跡」向かい側にある坊主山の西の谷を通って、岡山市北区首部に出る道が有力視されている。今も一応、人の通れる道があるようだが、実際に行ってみると、富原側は比較的通りやすいものの、峠を越えて首部側では道が分かりにくくなっている。確かに、ここに道があれば、都月坂よりは越えやすいと思われる。
興味深いのは、ちょうど首部側に出た先に「白山神社」があること(写真上)。その境内に「首塚」があり(写真中)、誰の首かは諸説あるものの(「首塚」の説明板参照)、温羅の首との伝承もある。温羅の首は結局、「吉備津神社」(岡山市)の釜殿の下に埋められたとされるので、温羅の首塚であったら、中には何もないことになるが・・・。
「艮御崎神社」(2008年12月9日記事参照)には温羅の胴体が埋められたという伝承があった。「白山神社」との関連は、古代道路だったかもしれない(妄想)。

白山神社(はくさんじんじゃ)。
場所:岡山市北区首部236。国道53号線の「首部橋西」交差点の北西約300m。国道の側道から首部集落に少し入ったところ。道路が狭く、駐車場がないので、できれば徒歩、自転車などで。
「岡山県神社誌」(昭和56年4月)によれば、祭神は伊耶那美命と菊理姫命。仁和元年(885年)に加賀国白山比神社の分霊を白山権現として勧請したものという。


「鬼に出会う吉備路」さんのHPから(鳴釜神事):http://www.oni-kibi.jp/story/07.html


写真上:白山神社


写真中:白山神社境内の首塚


写真下:坊主山の西の谷。白山神社から北に進んだところ。ここを越えると富原側に出るが、首部側からは道がはっきりしない。

コラム102.古代山陽道を探す(その6・富原遺跡)

2008-12-12 21:23:36 | Weblog
「駅家(うまや)」には「馬」だけでなく、事務所棟のほか、宿泊施設なども設置され、特に古代山陽道においては外国使節接待の目的もあったので、建物は瓦葺白壁とされていた。
古代には、国府であっても瓦葺ではなかったところも多く、古代の瓦が出土すると廃寺跡とされることが通例だったが、古代山陽道沿いにある場合は「駅家」跡である可能性が高くなった。岡山市北区富原にある「富原遺跡」も当初は「富原南廃寺」と称されていたが、現在では延喜式に記載のある「津高駅家」の有力候補となっている。
その場合、式内社「宗形神社」(岡山市北区大窪)の項(2008年6月22日記事)で書いたように、同神社周辺に「馬屋下」の地名があるが、富原とはやや離れている。これは、「駅家郷」は馬を養う(あるいは「駅家」の費用を賄う)場所であって、「駅家」そのものの場所ではないということらしい。なお、その北東に「靭負神社」(岡山市北区芳賀。2008年6月24日記事)があるが、あるいは、兵団が置かれた場所かもしれない(神社の名前からの連想)。
また、岡山市北区大窪と芳賀の間は「松尾」という地名だ。「松尾大社(神社)」の松尾なら、土木技術に優れた渡来人秦氏との関連も考えられる。
ちなみに、岡山市北区松尾には「松尾神社」はない。ところが、富原には「松尾神社」がある(場所:岡山市北区富原1057)。「岡山県神社誌」(昭和56年4月)によれば、祭神は大山咋神と月夜見命。天文3年(1534年)に、農作物不作のため山城国大山咋神社から勧請したものという。月夜見命を祀るのは、「松尾大社」の有名な摂社「月読神社」(式内社)も併せて勧請したからだろうが、農作物のためになぜ山の神を勧請したのだろうか(民俗学的には、春になると山の神が里に下りてきて田の神となり、冬になると山に帰る、という伝承があるらしい。)。


岡山市のHPから(富原北廃寺・富原遺跡):http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/kodai-jiin/04.html


写真上:富原遺跡付近から少し東に道路が狭くなっているところがあるが、その脇に細長い地割りがある。ここも古代山陽道の一部だったかもしれない。


写真下:松尾神社(岡山市北区富原)

コラム101.古代山陽道を探す(その5・辛川市場~富原)

2008-12-10 21:00:11 | Weblog
国道180号線から分かれた狭い道路を約700m進むと、岡山市北区辛川市場で県道61号線(妹尾御津線)と交差する。交差するのだが、その先は畦道である(写真上)。畦道にしては微妙に広い(古代官道跡というには狭そうなのだが。)。そこを歩いていくと、もちろん未舗装で、何となくフワフワした感触は畦道そのものである。しかも、「石川工業」という会社の裏側までで、道は無くなる。ただし、法務局備付けの公図では、畔道と水路があることになっている(幅は、合わせて約3m)。
舗装道路は、県道との交差点から右(南)に曲がって約120m(およそ1町)のところにある交差点を「中川」(笹ヶ瀬川水系)に沿って北方向に進む。その先、「今岡緑橋」(写真中)で元の直線道路に戻る。ここで後ろを見ると、さっきの畦道が「今岡緑橋」まで続いていたらしいことがわかる。
その先は、道路の右側(南側)は「緑ヶ丘団地」という住宅団地で、その名の通り、ちょっとした丘になっている。少し北にずれれば坂道を回避できると思うのだが、道路は直線的に進んでいる。
今岡を過ぎると、道路はやや方向を変え、北東方向からほぼ東方向に向かう。地図で見ると、今岡のあたりは2本の川が通っているせいでよくわからないが、辛川市場以西と楢津以東では条里制の方向が明らかに違っている。
そして、楢津と富原の境、「三白峠」を越える(写真下。ただし、富原側から撮ったもの。)。写真下の右側に見える、ネットを張った広場は「富原ちびっこ広場」で、その先にはブドウの温室がある。この辺りが「富原遺跡」といわれるところのようだ。「ようだ」というのは、特に案内板などはなく、遺跡自体の範囲がどこまでなのかもよくわからないため。
「富原遺跡」については、長くなりそうなので、次回に。


写真上:県道61号線との交差点


写真中:今岡緑橋


写真下:ほぼ直線的な道路の先の切通しが「三白峠」。

コラム100.古代山陽道を探す(その4・艮御崎神社)

2008-12-09 21:15:42 | Weblog
古代山陽道は「吉備津彦神社」の前を通らずに、北東に直進していくが、「唐川橋」(岡山市北区辛川市場)の南東約400mのところに「艮御崎神社」がある。「吉備津神社」の分社といわれるが、ここには「大吉備津彦命」が退治した「温羅」の胴体が葬られているとの伝承がある。この丘は「小丸山」といい、古墳の可能性があり、中世には城郭があったという。
その名の通り、備中国一宮「吉備津神社」の「艮」=ウシトラの方角に当たり、古代山陽道のすぐ脇にあることには何らかの意味があったかもしれない。

「艮御崎神社」(うしとらおんさきじんじゃ)。
場所:岡山市北区辛川市場160。中山中学校の北隣。駐車場なし。


「神ナビ」さんのHPから(艮御崎神社):http://www.spicy.sakura.ne.jp/jinja/ushitoraonzaki/ushitoraonzaki.htm


写真上:艮御崎神社


写真下:艮御崎神社を背後(古代山陽道側)から見る。いかにも古墳のようにみえる。

コラム99.古代山陽道を探す(その3・国境から唐川橋)

2008-12-08 21:03:16 | Weblog
国道180号線は、備前・備中国境から北東に向かって約900mは直線で、古代山陽道と一致するものと思われる。その先、国道180号線は南東に方向を変えて「吉備津彦神社」の方に向かうが、カーヴするところに、更に直線的に進む狭い道路が続いている(写真上)。
こちらが古代山陽道らしく、少し進むと古代山陽道「津高駅(つだかのうまや)」跡の案内板が設置されている(写真中)。そこにある建物は「祖師堂(日蓮堂)」で、「元妙寺」という不受不施派の廃寺跡であることは、付近で宝塔が出土したことなどでわかったようだ。しかし、ピンポイントで、ここが「津高駅家」であるとした根拠は何なのだろうか。というのは、今では、いわゆる「富原遺跡」が「津高駅家」跡であろうと考えられているからである(そのことは別途記事としたい。)。
更に進み、「砂川」(笹ヶ瀬川水系)に架かる「唐川橋」を渡る(写真下)。道路は狭いが、まだ直線的だ。


写真上:国道180号線は右にカーヴしているが、直進して古代山陽道へ。矢印の標識の下には、小さな石の道標もある。


写真中:津高駅家跡?


写真下:唐川橋

コラム98.古代山陽道を探す(その2・備前備中国境)

2008-12-07 19:03:34 | Weblog
吉備国は、7世紀後半に備前国、備中国、備後国の3国に分割された。この3国の一宮はいずれも大吉備津彦命を祀る。備前国一宮「吉備津彦神社」と備中国一宮「吉備津神社」は同じ吉備中山の山麓にあって、約2kmほどしか離れていない。そして、市町村合併により、この2社はともに岡山市に所在することになった。
しかし、今でも備前・備中国境の痕跡は「吉備津神社」近くにも残っている。「両國橋」もその1つ(「福田海Ⅰ」の項、2008年12月2日記事)。
備前・備中の「国境石」(写真上)は国道180号線のJR吉備線跨線橋の脇にあるが、跨線橋の北側のやや狭い道路が旧山陽道で、「真金一里塚」がある。

ここから、古代山陽道を辿ってみたい。


写真上:備前備中国境石


写真中:JR吉備線の「国境」踏切


写真下:中鉄バスの「境目」バス停

コラム97.古代山陽道を探す(その1・基礎知識)

2008-12-06 19:07:32 | Weblog
いわゆる「大化の改新」(645年)の翌年出された「改新の詔」は、「公地公民制」を定め、天皇による統一的支配を確立したものとされる。「改新の詔」は日本書紀に掲載されているが、その存在自体を疑う説も有力で、少なくとも後世の改変があるとされている。しかし、道路については、詔に駅馬・伝馬の制度も定められ、実際に7世紀中頃以降、官道(国家が整備する道路)の整備が進められた。

(律令制による)古代道路には次のような特徴があるとされる。
1.中央と地方の情報連絡を目的とした「駅路」は直線的に計画された道路で、多少の山などでは迂回せずに進む。したがって、人々の生活に関連のない場所を通ることも多かった。
2.30里(約16km)毎に「駅家」が設けられ、駅馬が置かれた。
3.「駅路」の道幅は、地方でも6~12mほどと、かなり広かった。
4.条里制の方向に一致することが多い(条里制の線引きが道路を基準としたことによるらしい。)。
5.広い道路を維持するには多大な費用がかかるため次第に衰退し、10世紀末~11世紀初めには消滅した。

そして、「山陽道」については特に、次のようになっていたとされる。
6.中央と大宰府を結ぶ「山陽道」は唯一の「大路」とされ、駅馬は20疋となっていた(中路は10疋、小路は5疋)。
7.「山陽道」は外国使節も往来するため、「駅家」は瓦葺・白壁で築かれた。
8.「延喜式」には、備前国に4つの駅家(「坂長」・「珂磨」・「高月」・「津高」)があったことが記されている。