備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム97.古代山陽道を探す(その1・基礎知識)

2008-12-06 19:07:32 | Weblog
いわゆる「大化の改新」(645年)の翌年出された「改新の詔」は、「公地公民制」を定め、天皇による統一的支配を確立したものとされる。「改新の詔」は日本書紀に掲載されているが、その存在自体を疑う説も有力で、少なくとも後世の改変があるとされている。しかし、道路については、詔に駅馬・伝馬の制度も定められ、実際に7世紀中頃以降、官道(国家が整備する道路)の整備が進められた。

(律令制による)古代道路には次のような特徴があるとされる。
1.中央と地方の情報連絡を目的とした「駅路」は直線的に計画された道路で、多少の山などでは迂回せずに進む。したがって、人々の生活に関連のない場所を通ることも多かった。
2.30里(約16km)毎に「駅家」が設けられ、駅馬が置かれた。
3.「駅路」の道幅は、地方でも6~12mほどと、かなり広かった。
4.条里制の方向に一致することが多い(条里制の線引きが道路を基準としたことによるらしい。)。
5.広い道路を維持するには多大な費用がかかるため次第に衰退し、10世紀末~11世紀初めには消滅した。

そして、「山陽道」については特に、次のようになっていたとされる。
6.中央と大宰府を結ぶ「山陽道」は唯一の「大路」とされ、駅馬は20疋となっていた(中路は10疋、小路は5疋)。
7.「山陽道」は外国使節も往来するため、「駅家」は瓦葺・白壁で築かれた。
8.「延喜式」には、備前国に4つの駅家(「坂長」・「珂磨」・「高月」・「津高」)があったことが記されている。