備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム102.古代山陽道を探す(その6・富原遺跡)

2008-12-12 21:23:36 | Weblog
「駅家(うまや)」には「馬」だけでなく、事務所棟のほか、宿泊施設なども設置され、特に古代山陽道においては外国使節接待の目的もあったので、建物は瓦葺白壁とされていた。
古代には、国府であっても瓦葺ではなかったところも多く、古代の瓦が出土すると廃寺跡とされることが通例だったが、古代山陽道沿いにある場合は「駅家」跡である可能性が高くなった。岡山市北区富原にある「富原遺跡」も当初は「富原南廃寺」と称されていたが、現在では延喜式に記載のある「津高駅家」の有力候補となっている。
その場合、式内社「宗形神社」(岡山市北区大窪)の項(2008年6月22日記事)で書いたように、同神社周辺に「馬屋下」の地名があるが、富原とはやや離れている。これは、「駅家郷」は馬を養う(あるいは「駅家」の費用を賄う)場所であって、「駅家」そのものの場所ではないということらしい。なお、その北東に「靭負神社」(岡山市北区芳賀。2008年6月24日記事)があるが、あるいは、兵団が置かれた場所かもしれない(神社の名前からの連想)。
また、岡山市北区大窪と芳賀の間は「松尾」という地名だ。「松尾大社(神社)」の松尾なら、土木技術に優れた渡来人秦氏との関連も考えられる。
ちなみに、岡山市北区松尾には「松尾神社」はない。ところが、富原には「松尾神社」がある(場所:岡山市北区富原1057)。「岡山県神社誌」(昭和56年4月)によれば、祭神は大山咋神と月夜見命。天文3年(1534年)に、農作物不作のため山城国大山咋神社から勧請したものという。月夜見命を祀るのは、「松尾大社」の有名な摂社「月読神社」(式内社)も併せて勧請したからだろうが、農作物のためになぜ山の神を勧請したのだろうか(民俗学的には、春になると山の神が里に下りてきて田の神となり、冬になると山に帰る、という伝承があるらしい。)。


岡山市のHPから(富原北廃寺・富原遺跡):http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/kodai-jiin/04.html


写真上:富原遺跡付近から少し東に道路が狭くなっているところがあるが、その脇に細長い地割りがある。ここも古代山陽道の一部だったかもしれない。


写真下:松尾神社(岡山市北区富原)