MVKのいろいろ

残り少ない人生、その楽しい余生のあり方を目下研究中

初冬の那須連峰

2005年11月26日 | Weblog
11月下旬の或る日、珍しく雲一つ無い那須連峰を眺めることができた。
「那須火山脈を中心、標高1915mの茶臼岳は今も噴煙を上げている活火山ですが、9合目まではロープウエイで登ることができ、頂上までは女性の足でも45分とラクラク。頂上からの眺望はすばらしく、磐梯山・吾妻山や帝釈山・日光連山までも望み、眼下に広がる那須野ケ原の広大な眺めは壮観です。
 山頂付近は、高山植物の宝庫でもあり、若者からご家族向きのコースとして親しまれています。なお、健脚向きの本格登山も魅力ですが、こちらは十分な装備と心がまえが必要です。」ということである。若かりし頃、茶臼岳を登ったことがあるが、石がゴロゴロして大変登り難かった。

阿波踊り

2005年11月14日 | Weblog
徳島の友人に誘われ、一夜、阿波踊会館に踊りを見に行った。特に印象深かったのは、女子の優美で艶やかな踊りであった。
現在の徳島市内での阿波踊りは「連」というグループ単位で隊列を組んで「桟敷(さじき)」という観客席の間を踊り抜ける形式になっています。

恵林寺

2005年11月12日 | Weblog
信玄の墓といわれるものは山梨県内に9ヶ所もある。没後3年たって葬送したのが、恵林寺の住職であり、武田信玄の菩提寺となっている。
信玄の家来に高坂弾正(春日源助)というのがいる。我が家の系図に載っているが、我が家は直系かどうか判らない。父は、春日大隅といい百姓だったという説もある。
春日大隅(守)貞広
 源助の実父。廣広の字を使う場合もある。石和広岡の豪農。武田の兵糧集め。
一説によればただの百姓ではなかったらしい。永正13年に春日大隅(守)貞広は村上頼平に款を通じて望月氏と戦ったが、敗れ甲州に来た。甲州に逃れた大隅は石和(井沢)に住み武田家に仕える。ってことは!大隅は元武士だったわけ!?春日のお家はずっと石和土着だった訳じゃないのか。
 高野山成慶院の過去帳の人物と同一人物であればその戒名は「喜翁宗運禅定門」で、辰の年の12月17日に亡くなっている。また『甲陽軍鑑』の記述では源助は大隅と幼くして離れ、というような記述があることから、源助が幼い時に亡くなったようだ。
「武田四名臣」の一人。
元は信玄の小姓(身の回りの世話をする子供)で、美男子だったらしい。
「逃げ弾正」の異名を持つが、これは慎重派であったことを意味するという。
軍略・兵法に優れ、領地の経営にも手腕を発揮し、越後・上杉家との国境に近い「海津城」の城主となって北信濃を守った。
上杉謙信も、信濃に侵攻しても彼のいる城だけは避けて通ったという。