MVKのいろいろ

残り少ない人生、その楽しい余生のあり方を目下研究中

恵林寺

2005年11月12日 | Weblog
信玄の墓といわれるものは山梨県内に9ヶ所もある。没後3年たって葬送したのが、恵林寺の住職であり、武田信玄の菩提寺となっている。
信玄の家来に高坂弾正(春日源助)というのがいる。我が家の系図に載っているが、我が家は直系かどうか判らない。父は、春日大隅といい百姓だったという説もある。
春日大隅(守)貞広
 源助の実父。廣広の字を使う場合もある。石和広岡の豪農。武田の兵糧集め。
一説によればただの百姓ではなかったらしい。永正13年に春日大隅(守)貞広は村上頼平に款を通じて望月氏と戦ったが、敗れ甲州に来た。甲州に逃れた大隅は石和(井沢)に住み武田家に仕える。ってことは!大隅は元武士だったわけ!?春日のお家はずっと石和土着だった訳じゃないのか。
 高野山成慶院の過去帳の人物と同一人物であればその戒名は「喜翁宗運禅定門」で、辰の年の12月17日に亡くなっている。また『甲陽軍鑑』の記述では源助は大隅と幼くして離れ、というような記述があることから、源助が幼い時に亡くなったようだ。
「武田四名臣」の一人。
元は信玄の小姓(身の回りの世話をする子供)で、美男子だったらしい。
「逃げ弾正」の異名を持つが、これは慎重派であったことを意味するという。
軍略・兵法に優れ、領地の経営にも手腕を発揮し、越後・上杉家との国境に近い「海津城」の城主となって北信濃を守った。
上杉謙信も、信濃に侵攻しても彼のいる城だけは避けて通ったという。