太氣拳はその名称に「氣」の一字が入っており、氣を用いた武術のひとつであると言われている。
実際、「氣」による特殊体験や神秘体験を期待して太氣拳に入門してくる人もいるのではないかと思う。
いわゆる相手の身体に触れることもなく吹っ飛ばしたり、倒したりといったことが「氣」の力によって可能になるといった類のものだ。
物理的、力学的なものを超越した超能力のようなものが得られることを期待しているのかも知れないし、立禅や這い等の訓練方法も通常の運動法から見ると特異としか見えず、それによって「氣」による特殊能力が得られるのではないかと錯覚させてしまう側面があるのかもしれない。
私は岩間先生に師事し、中国に留学して意拳を学ばれた佐藤聖二先生のご指導をも仰ぎ、現在に至っている。
しかし、両先生から具体的な氣の解説、氣に関する指導を受けたことは一切ない。
岩間先生の下では組み手によるぶつかりあいが大前提で、そこには氣による神秘体験など入り込む余地は微塵もなく、現実的で生々しい体験しかなかった。
ただ、先生は「氣」を否定はしていなかった。
実際に沢井先生は「岩間は氣が出た」と言って、その実力が格段に違う次元に上がったことを示しているし、王薌斎先生が「氣」による効果や変化を話していたから沢井先生は「氣」という言葉を用い、自身の武術を命名するにあたって「氣」の一字を入れられたのであるものと考える。
人を飛ばしたり、倒したりといった現象は結局、筋肉の力によるものだ。
しかし、そこには通常の運動方法からすると計り知ることの出来ない無意識下の調整能力、制御能力が存在し、そこに「氣」という概念が介在してくるのではないだろうか?
中国では自然界のあらゆる現象を医学、易学などの観点から「氣」の存在を認め、理論化している。
「氣」とは、見ることも出来ず、触れることも出来ず、匂いもなく、音もなく、人間の五感で感じることは出来ないが、その働き、作用は間違いなくあるものとされる。
「氣」にも色々あって、狭義的な解釈による氣もあれば、広義的な解釈による氣もあるだろう。
個人的には立禅や試力の際、体内の氣の流れをイメージして血流の変化を感じ取り、筋肉状態を調節することで、骨格を強固に支持しながら円滑に動くための訓練として役立ている。
こんな書き方をすると、やはり特殊な何かがあるのではないのか?と思われそうであるが、そうではなく、意外と誰でも普段から感じているもので、又、誰でもすぐに理解できるものである。
東洋医学における「氣・血・水の原理」によれば、血流、すなわち血液の流れには、それに先行して氣の流れがあるものとされる。
つまり、気の流れる所に血は流れ、水は通る。というものである。水とはリンパ液等の体液を指している。
力をこめた状態、つまり筋肉を強く収縮させた状態とは毛細血管も圧縮され、血流が著しく阻害された状態となる。
この状態は氣の流れがよくない状態である。
それに対して、筋肉が緩んだ状態とは毛細血管は拡がり、筋肉中の血流もスムーズである。
このリラックスした状態が「氣」が通っている状態、「氣」が流れている状態である。
身体の中に「氣を通す」あるいは「氣を流す」とイメージすることで筋肉の緊張を取り去り、血液がスムーズに流れている心地よい感覚を確かめながら、目的とする筋肉をリラックスした状態に導くことが可能になる。
内功を重視する内家拳派がウェイトトレーニング等の筋肉に過剰な負担をかけて強化する方法を嫌うのも、筋肉が硬化して氣の流れを低下させる作用が働くからである。
レジスタンストレーニングによって、筋力アップ、筋肥大は計れるが、それと同時に筋肉は硬化しやすくなり、リラックスした状態から離れていく。
つまり、血流の低下した「氣の流れの悪い状態」となり、それは運動時以外でも筋肉の硬化を招き、それが慢性化しやすくなり、筋肉がのびやかに伸張している理想的な動きに反した、こわばった状態、固い動きを形成してしまうリスクが高いと捉えているからである。
話が脱線したが、「氣」の概念を自身の武術に活かすことは決して超然的なものでも神秘的なものではないと思う。
動物なら皆が持っている当たり前の働きを、少し具体的、感覚的に活用していくようなものなのではないだろうか?
私は「氣」を否定しない。
しかし、これまでもそうであったし、これからもそうなのだが、自身の武術に「氣」による神秘的な力を得ることなど全く期待していない。
そんなものは不要である。
自身の動きを追求していく上で「氣」の概念や作用は、現実的な視点を崩さずに活用していく。
立禅に取り組むことで、通常のトレーニング法では獲得することのできない能力を身に付けていくことが可能であることを確信しているし、それが面白いから50歳を過ぎても稽古を続けている。
太氣拳成道会
http://www.joudou.jp/
実際、「氣」による特殊体験や神秘体験を期待して太氣拳に入門してくる人もいるのではないかと思う。
いわゆる相手の身体に触れることもなく吹っ飛ばしたり、倒したりといったことが「氣」の力によって可能になるといった類のものだ。
物理的、力学的なものを超越した超能力のようなものが得られることを期待しているのかも知れないし、立禅や這い等の訓練方法も通常の運動法から見ると特異としか見えず、それによって「氣」による特殊能力が得られるのではないかと錯覚させてしまう側面があるのかもしれない。
私は岩間先生に師事し、中国に留学して意拳を学ばれた佐藤聖二先生のご指導をも仰ぎ、現在に至っている。
しかし、両先生から具体的な氣の解説、氣に関する指導を受けたことは一切ない。
岩間先生の下では組み手によるぶつかりあいが大前提で、そこには氣による神秘体験など入り込む余地は微塵もなく、現実的で生々しい体験しかなかった。
ただ、先生は「氣」を否定はしていなかった。
実際に沢井先生は「岩間は氣が出た」と言って、その実力が格段に違う次元に上がったことを示しているし、王薌斎先生が「氣」による効果や変化を話していたから沢井先生は「氣」という言葉を用い、自身の武術を命名するにあたって「氣」の一字を入れられたのであるものと考える。
人を飛ばしたり、倒したりといった現象は結局、筋肉の力によるものだ。
しかし、そこには通常の運動方法からすると計り知ることの出来ない無意識下の調整能力、制御能力が存在し、そこに「氣」という概念が介在してくるのではないだろうか?
中国では自然界のあらゆる現象を医学、易学などの観点から「氣」の存在を認め、理論化している。
「氣」とは、見ることも出来ず、触れることも出来ず、匂いもなく、音もなく、人間の五感で感じることは出来ないが、その働き、作用は間違いなくあるものとされる。
「氣」にも色々あって、狭義的な解釈による氣もあれば、広義的な解釈による氣もあるだろう。
個人的には立禅や試力の際、体内の氣の流れをイメージして血流の変化を感じ取り、筋肉状態を調節することで、骨格を強固に支持しながら円滑に動くための訓練として役立ている。
こんな書き方をすると、やはり特殊な何かがあるのではないのか?と思われそうであるが、そうではなく、意外と誰でも普段から感じているもので、又、誰でもすぐに理解できるものである。
東洋医学における「氣・血・水の原理」によれば、血流、すなわち血液の流れには、それに先行して氣の流れがあるものとされる。
つまり、気の流れる所に血は流れ、水は通る。というものである。水とはリンパ液等の体液を指している。
力をこめた状態、つまり筋肉を強く収縮させた状態とは毛細血管も圧縮され、血流が著しく阻害された状態となる。
この状態は氣の流れがよくない状態である。
それに対して、筋肉が緩んだ状態とは毛細血管は拡がり、筋肉中の血流もスムーズである。
このリラックスした状態が「氣」が通っている状態、「氣」が流れている状態である。
身体の中に「氣を通す」あるいは「氣を流す」とイメージすることで筋肉の緊張を取り去り、血液がスムーズに流れている心地よい感覚を確かめながら、目的とする筋肉をリラックスした状態に導くことが可能になる。
内功を重視する内家拳派がウェイトトレーニング等の筋肉に過剰な負担をかけて強化する方法を嫌うのも、筋肉が硬化して氣の流れを低下させる作用が働くからである。
レジスタンストレーニングによって、筋力アップ、筋肥大は計れるが、それと同時に筋肉は硬化しやすくなり、リラックスした状態から離れていく。
つまり、血流の低下した「氣の流れの悪い状態」となり、それは運動時以外でも筋肉の硬化を招き、それが慢性化しやすくなり、筋肉がのびやかに伸張している理想的な動きに反した、こわばった状態、固い動きを形成してしまうリスクが高いと捉えているからである。
話が脱線したが、「氣」の概念を自身の武術に活かすことは決して超然的なものでも神秘的なものではないと思う。
動物なら皆が持っている当たり前の働きを、少し具体的、感覚的に活用していくようなものなのではないだろうか?
私は「氣」を否定しない。
しかし、これまでもそうであったし、これからもそうなのだが、自身の武術に「氣」による神秘的な力を得ることなど全く期待していない。
そんなものは不要である。
自身の動きを追求していく上で「氣」の概念や作用は、現実的な視点を崩さずに活用していく。
立禅に取り組むことで、通常のトレーニング法では獲得することのできない能力を身に付けていくことが可能であることを確信しているし、それが面白いから50歳を過ぎても稽古を続けている。
太氣拳成道会
http://www.joudou.jp/
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます