立禅を続けていくと、身体が膨張したような感覚になる。
これを力のベクトルに置き換えると「六面力」である。
更に分解すると、身体各所でこの感覚によって各関節が引き合うような、反発するような、つまり相争うような感覚となる。
例えば、右手と左手、腕の付け根と末端、腕と脚、頭と足等など、身体各所で力が相争わないところは無くなる。これは大、小に関わらず全身の関節に対して生ずる。
これが「争力」である。
全身各所の争力が、より豊富であればあるほど力を爆発させる際に有利であるとされる。
この状態で身体のどこかを動かすと、例えば、指を体に近づけようとすると肘は遠くに離れようとしたり、又、腕を挙げようとすれば体は下に沈もうとしたり、つまり関節のどこかを動かそうとすれば全身がそれに従って異なる方向に動く。
これが「矛盾力」であるとされる。
この状態ならば、各関節はより強固な状態で外部からの衝撃に対抗できる。
例えば、推手等で手が接触した状態からそこに何らかの圧力が生じた場合や、パンチが目標にヒットした場合等も拳から腕に外部からの衝撃が介入することになるが、その際に各関節は外側の大きな筋肉を用いずとも、つまり力感を得なくとも、その形状を維持することが出来る。
その時の腕、あるいは脚は三角形をかたどっており、これが「三角力」である。
形は屈曲していても力の方向は真っ直ぐなので「形曲力直」と言われる。
この段階では、本来身体に備わっている様々な潜在的な機能を上記の様な形で確認することが可能となる。これは数値化できるものではない。又、外観上で判断することも出来ない。只、触れてみれば分かる。
各自がそれを知ることでしか、理解することは出来ない。反対に、それを知るということは会得したと云うことを意味する。
次の段階として、身体全体が上下に引き合う様な感じで立つことになるのだが、それを説明する為には物理的な知識を用意する必要がある。
まず我々が立っている地面は、地球の表面である。地球には重力が働いており、それはあらゆる物質は球体である地球の中心部に対して引き寄せられているということである。
どんなに高くジャンプしても落っこちる、ボールをどんなに高く遠くに投げてもやがて落っこちる。これは万物に対して地球の中心に引き寄せられるという力、つまり重力が働いてからである。
重力に対抗して力を発揮することによって、跳んだり跳ねたりができるわけで、又、立つことが出来ているわけである。
反対に、例えば50キロ位の鉄の球を30センチほどの高さから落っことしてみるとすると、それはかなりのパワーとなる。間違って、足の指等に落としてしまうと骨折してしまうかもしれない。
重力を利用して自分自身の質量を物理的な運動エネルギーに転換出来たら、それは絶大な威力となる。
立禅を続けていくと、全身が膨張する感じになり、やがてそれは地面と我が身が互いに引き合っているかのような感覚に至る。
これが王郷斎先生の言うところの地球の中心と引き合う力であり、「上下の力」である。
この上下に引き合う力こそがあらゆる争力の要になると言われる。
これも又、ここに行き着いた人達のみ知り得る世界である。
この段階には早い人でも2~3年はかかると思っているし、分からない人は死ぬまで分からないかもしれない。
この段階での能力が推手に現れてくると腕の重さに加えて、崩しが強力になると考えられ、打撃に際し、上下の力を瞬間的に用いたら、それまでの力とスピードによるものがもっと強力になる。
デモンストレーションレベルでも人を遠くに飛ばす等のパフォーマンスを可能にするにはこの上下の力が分かっていなくては無理だろう。
この上下の力が形のある技として発現されるに至ると、それは人体の中で最大級のバネの役割を持つ大腿二頭筋即ちハムストリングの伸張反射を自然に行っているということになり、立禅の際に姿勢を支えているのが太腿の表側の大腿四頭筋から裏側の大腿二頭筋即ちハムストリングに移行しているということにもなる。
すると、脚の疲労感は大きく軽減される。
この段階に入ると、推手ほもちろん、打撃に関しても大きな変化があることを感じる人も多いと思う。現に変わってくるのであるが、いざ組み手になると、これまでと比べてそれほどの変化がない場合が多い。
実際、組み手のように状況は常に千変万化し、ましてや相手が自分に対して襲いかかってくるなかで、いちいち六面力だ、三角力だ、上下の争力だ、等と考えている時間は無い。
そうすると、これまでの自分が知っている動きで対処してしまうからである。
これら獲得した能力は常に磨き高めておく必要は言うまでもないが、同時にそれらを全て忘れて尚且つそれらが存在している必要がある。
食事の時にいちいち、箸の持ち方や使い方を考えながら飯を食うという事は無く、そんなことは皆、無意識に行なっているが、立禅により引き出された能力もこの飯を食うのと同じくらいの段階にならないと本当に役に立つことは無いだろう。
これは凡夫である私自身の課題でもあるが、その為には自身の価値観、人生観をはじめあらゆる物事に対する捉え方が、大きく変わらないとダメなのかもしれない。
これが簡単な様で難しいのである。出来そうで出来ない。
この部分に関しては、師・岩間先生が太気拳に開眼したとされる際の貴重なエピソードがあるので、又の機会にでも記したいと思う。
太気拳クラス・対人練習のひとコマ
空手拳法成道会
http://www.joudou.jp/
これを力のベクトルに置き換えると「六面力」である。
更に分解すると、身体各所でこの感覚によって各関節が引き合うような、反発するような、つまり相争うような感覚となる。
例えば、右手と左手、腕の付け根と末端、腕と脚、頭と足等など、身体各所で力が相争わないところは無くなる。これは大、小に関わらず全身の関節に対して生ずる。
これが「争力」である。
全身各所の争力が、より豊富であればあるほど力を爆発させる際に有利であるとされる。
この状態で身体のどこかを動かすと、例えば、指を体に近づけようとすると肘は遠くに離れようとしたり、又、腕を挙げようとすれば体は下に沈もうとしたり、つまり関節のどこかを動かそうとすれば全身がそれに従って異なる方向に動く。
これが「矛盾力」であるとされる。
この状態ならば、各関節はより強固な状態で外部からの衝撃に対抗できる。
例えば、推手等で手が接触した状態からそこに何らかの圧力が生じた場合や、パンチが目標にヒットした場合等も拳から腕に外部からの衝撃が介入することになるが、その際に各関節は外側の大きな筋肉を用いずとも、つまり力感を得なくとも、その形状を維持することが出来る。
その時の腕、あるいは脚は三角形をかたどっており、これが「三角力」である。
形は屈曲していても力の方向は真っ直ぐなので「形曲力直」と言われる。
この段階では、本来身体に備わっている様々な潜在的な機能を上記の様な形で確認することが可能となる。これは数値化できるものではない。又、外観上で判断することも出来ない。只、触れてみれば分かる。
各自がそれを知ることでしか、理解することは出来ない。反対に、それを知るということは会得したと云うことを意味する。
次の段階として、身体全体が上下に引き合う様な感じで立つことになるのだが、それを説明する為には物理的な知識を用意する必要がある。
まず我々が立っている地面は、地球の表面である。地球には重力が働いており、それはあらゆる物質は球体である地球の中心部に対して引き寄せられているということである。
どんなに高くジャンプしても落っこちる、ボールをどんなに高く遠くに投げてもやがて落っこちる。これは万物に対して地球の中心に引き寄せられるという力、つまり重力が働いてからである。
重力に対抗して力を発揮することによって、跳んだり跳ねたりができるわけで、又、立つことが出来ているわけである。
反対に、例えば50キロ位の鉄の球を30センチほどの高さから落っことしてみるとすると、それはかなりのパワーとなる。間違って、足の指等に落としてしまうと骨折してしまうかもしれない。
重力を利用して自分自身の質量を物理的な運動エネルギーに転換出来たら、それは絶大な威力となる。
立禅を続けていくと、全身が膨張する感じになり、やがてそれは地面と我が身が互いに引き合っているかのような感覚に至る。
これが王郷斎先生の言うところの地球の中心と引き合う力であり、「上下の力」である。
この上下に引き合う力こそがあらゆる争力の要になると言われる。
これも又、ここに行き着いた人達のみ知り得る世界である。
この段階には早い人でも2~3年はかかると思っているし、分からない人は死ぬまで分からないかもしれない。
この段階での能力が推手に現れてくると腕の重さに加えて、崩しが強力になると考えられ、打撃に際し、上下の力を瞬間的に用いたら、それまでの力とスピードによるものがもっと強力になる。
デモンストレーションレベルでも人を遠くに飛ばす等のパフォーマンスを可能にするにはこの上下の力が分かっていなくては無理だろう。
この上下の力が形のある技として発現されるに至ると、それは人体の中で最大級のバネの役割を持つ大腿二頭筋即ちハムストリングの伸張反射を自然に行っているということになり、立禅の際に姿勢を支えているのが太腿の表側の大腿四頭筋から裏側の大腿二頭筋即ちハムストリングに移行しているということにもなる。
すると、脚の疲労感は大きく軽減される。
この段階に入ると、推手ほもちろん、打撃に関しても大きな変化があることを感じる人も多いと思う。現に変わってくるのであるが、いざ組み手になると、これまでと比べてそれほどの変化がない場合が多い。
実際、組み手のように状況は常に千変万化し、ましてや相手が自分に対して襲いかかってくるなかで、いちいち六面力だ、三角力だ、上下の争力だ、等と考えている時間は無い。
そうすると、これまでの自分が知っている動きで対処してしまうからである。
これら獲得した能力は常に磨き高めておく必要は言うまでもないが、同時にそれらを全て忘れて尚且つそれらが存在している必要がある。
食事の時にいちいち、箸の持ち方や使い方を考えながら飯を食うという事は無く、そんなことは皆、無意識に行なっているが、立禅により引き出された能力もこの飯を食うのと同じくらいの段階にならないと本当に役に立つことは無いだろう。
これは凡夫である私自身の課題でもあるが、その為には自身の価値観、人生観をはじめあらゆる物事に対する捉え方が、大きく変わらないとダメなのかもしれない。
これが簡単な様で難しいのである。出来そうで出来ない。
この部分に関しては、師・岩間先生が太気拳に開眼したとされる際の貴重なエピソードがあるので、又の機会にでも記したいと思う。
太気拳クラス・対人練習のひとコマ
空手拳法成道会
http://www.joudou.jp/