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立禅バカ

2012-11-21 22:37:00 | 格闘技、武道
立禅の必要性を再認識して、より一層、立禅バカになっている私であるが、以前にブログで書いたような私の推察など、遥かに超えた内容が存在するものと考えられる。

長時間の立禅の後は、肩の奥深く、背中の奥より更に肋骨の中、お尻の奥深くなどに通常の筋トレの時とは少し異なる特殊な筋肉痛が生じることがあるが、私の推察などで推し量ることのできない深層筋の鍛錬が行なわれていると思われてならない。

長時間、同じ姿勢でいることは大変に辛いものであるが、このきつさ、辛さを感じてから、それをどれだけの時間、耐えられるかが深層筋の鍛練として意味を持つものと考えられる。

佐藤先生が常々、「立禅は最低30分は立つように。出来れば40分、50分、1時間、と時間をかけることによってこそ、得られるものも多い」と指導されるのには、ひとつはその様な目的があるのでは、と考えている。

自重のみによるアイソメトリック(等尺性収縮)トレーニングを深層筋に行なっているとも言えるが、この場合、一定の筋収縮を維持する時間が深層筋の強度を高めるための負荷となるのでは、と考えられる。
時間負荷と言ってもよいだろう。

関節を支持するために必要な微妙な位置や角度の調整を、それぞれの意念、イメージによって導き出し、その状態を保持することが深層筋の収縮を持続させ続けることとなって、強化につながると考えられるが、これが結構きつい。

以前、地獄のような苦しさがそれを通り越して天国に変わったと書いたが、それはその1回きりで、あんな状態はそれ以来、訪れていない。
その日その時によって、きつい時と、それほどでない時もあるが、2時間以上も立禅に取り組んでいると、やはり後半は辛くなってくる。

頭の片隅では、「もう今日はこれくらいでいいんじゃないか?」とか「今日は午後から予定もあるし、このへんにしとこうか?」等と、悪魔のささやきが聞こえてくる。
この葛藤が実に活発で、自分の心との格闘と言えば大げさのように聞こえるが、実際に結構なストレスである。

ウェイトや筋トレで、筋肉は悲鳴を上げているのに、そこで踏ん張ってもう1回!というあの追い込みも辛いものがあるが、それと似ていて少し異なる。

筋トレのきつさは「あともう1回、これをクリアしたらこの苦しさから解放される!」というわずか数秒のストレスの繰り返しである。
そこで歯を食いしばって乗り越えたら、一旦はその状況から解放される。

立禅の場合は、抵抗負荷を用いたレジスタンストレーニングのような強烈なきつさはないが、じんわりとしたきつさが徐々に徐々に蓄積して、やがて結構な辛さに変わる。
それが、数秒どころでない長い時間続き、それも姿勢を変えたりといったことを自身に禁じているので、何ら対策の仕様がない。

「あと2分、あと1分」と、耐久時間を少しずつ延長していっても、2~3時間のそれとなると、目標までの残り時間が「まだ1時間半もある」となったりすると、通常の精神状態では如何とも耐えがたい。

そんな葛藤の繰り返しの中で変化が訪れた。

その日は前日の疲れからか30分も組んでいるときつさが現れて来て、1時間半くらいのところで心が折れそうになったが、「このきつさはどうせ変わらない、もうどうでもいいや、もう勝手にしろ」といったような心境になった途端、きつさ、辛さが緩和された。

「あきらめ」とか「観念する」と言ってもよいような、そんな心理状態になった途端、不思議なもので立禅の際のきつさ、辛さが大きく緩和されたのである。
しかし、又、数分もすると、きつさ、辛さが訪れて来て、心の格闘が始まろうとする。そこで又、自分の心と闘うことをあきらめて、しかし、立ち続ける。
すると、以前は地獄とまで言った程の苦しさは感じなくなった。
最近は2~3時間、立禅を組む時、後半はこんなことの繰り返しである。

この体験も私にとっては特別なものであった。

立禅の最中、きつさのあまり、思わず腕を降ろしてしまいたくなる衝動がムラムラとこみ上げてくる。
これを抑え続けることは、私にとっては結構大変な作業だったのであるが、この「あきらめ感(?)」によって、姿勢を全く変えずに、意念による深層筋の活動も停止することなく、先のストレスが大きく軽減されることに気が付いた。

ひとつは精神状態、心理状態は筋肉、つまり筋収縮に現れると言われる。
佐藤先生は、人は楽しい時、苦しい時、悲しい時、嬉しい時、怒っている時など、その人の心が目などの表情に現れることを言われていた。
これは、精神や心理が顔面の表情筋の収縮に関係している証拠である。
そのように考察すると、精神の状態が運動時の筋肉の収縮に微妙なようで、実は密接に関わっていると仮定できる。

先程の立禅時の負担軽減は、自身でも気が付かないような無意識下の筋肉の余分な緊張が、自身と葛藤することをあきらめたことで解消されたのかも知れない。
とすると、これも精神の働きが筋肉に反映されている状況のひとつと言える。

岩間先生が澤井先生との組み手攻防の中、「もうどうでもいいや」と開き直った瞬間、太氣拳に開眼したとされるエピソードが実際にあるが、先述のような観点からも、よくよく考察してみるべき事例である。

意念による構造力の構築作業も、思うこと、念じることによって微妙に皮膚の中の筋肉が動く。
自由攻防の場に於いて、それを縦横に駆使するためには、このような精神状態も理解して修練しておくべきなのかも知れない。

立禅の中では、それらが同時に進行しながら強化されると思われる。

長時間立つと、着実に構造力が強化されていることが後日の稽古で実感できるので、それを励みになんとかやっているようなものである。

そのようにして少しずつ強化された構造力は、程なく、時間を要せずとも発揮できる様になる。
立って形をとるとすぐに現れるので、3分~5分といった短時間の立禅でも、強い膨張感、さらに身体の中が圧縮された様な感覚と効果が得られる。
身体の各部位がつながった等と言うレベルでない、身体の中の密度が上がったとでもいうべき感覚でもあるのだが、これはわかっている人にしかわからない感覚で、共有することは極めて難しいと思われる。

個人的には、長時間の立禅によって強化された構造力を持っていれば、様々な立禅の形を数分間ずつ何種類も取り組むことでも、その効果は期待できるのでは?とも考えているので、意拳の先生方の立禅に対する考え方の相違は、そのようなものと勝手に解釈している。

かつて、澤井先生が王郷斉先生に師事した際、来る日も来る日も立禅ばかりを組まされた、と言われている。

意拳や太氣拳の特異とも云える技術体系は、立禅によって獲得された各種の能力あってのもので、それ無くして動きや形だけを真似てみてもほとんど無意味であることを痛感している。
そのことを自身の身体を持って理解しなければ、他の武術や格闘技に取り組んだ方が、余程効率的だろう。

であるから、共有できる認識を持つことが難しい立禅の内容は、とりあえずは何かを期待せずに、バカになって徹底的に取り組んでみて、自身の身体によって理解を繰り返すことが必要なのだと思う。



太氣拳成道会
http://www.joudou.jp/