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差し手

2008-08-31 09:51:00 | 格闘技、武道
岩間先生が「太気拳セミナー」での技術指導の際、太気拳の重要なディフェンス技術である「差し」について細かく指導されていたので記しておきたい。

かつて澤井先生は「練り」のなかでも「差し」の動きを見れば、その人の練成度がよくわかると言っていたとのことである。

差し手とは相手の繰り出すストレート系のパンチに対する防御法であるが、通常のブロック技術とは異なる。

顔面に接近してくる拳を、側面から力を加えてさえぎるのではなく、直線状に伸びてくる相手の腕に軽く接触することにより、パンチの軌道をずらしてしまう

そのため上手くいったら、打っている側にも差している側にも何の手応えもない様に感じられる。
それが故に、瞬間相手の腕に自分の腕を密着させて推手状態に持って行くことができるとされる。

通常のブロック技術であれば、ガツン!とぶつかりあう手応えが少なからずあり、受けた直後にこちらの打撃を返していく、という2動作が必要となる。

差しを通常のブロック技術のようにとらえて解釈すると、ムエタイやキックでよく使用される腕を前に置いて防御するアームブロックの亜流のようになってしまうが、これとは全く別物である。

普段の稽古では直線状のラインを想定して練りに取り組むのだが、先日の岩間先生の動きを見ていたら、何かが違っていたので検証してみた。

すると、直線に対して直線で差すのではなく、直線に対して斜面で差しており、先生には「受けるぞ!」という頑張り感はいささかも感じられない。
飯を食う時に、箸を運ぶが如くである。

直線に対して直線で差すと、パンチが想定したライン上から違う軌道で入ってきた場合、往々にしてこちらの手をすり抜けてパンチを被ってしまう。
これが斜面であれば、大まかなパンチの軌道上に腕があるために不思議とこちらの腕に相手の腕が接触してくれる。

点に対して線で対処するのだが、線が面となる。

さて、この様な「差し手」ひとつをとってみても、動作を真似たからといって使えるものではない。
太気拳には形を真似て、すぐに使える等という技は皆無である。

先生の差しは、立禅の立ち姿そのままで動かれているので、肩は落ちたまま、肘も下がったままで、これほどまでに動作における身体の中身が変わらなければ、組み手などの模擬実戦においては到底使用できないものと思われる。

澤井先生はただ立禅の状態のままパンチに対して動いたら、たまたま差しの形になっていた、それを練りのなかにまとめた、とも考えられる。
事実、先生も「差しているのではなく、ただ動いているだけ」と懇親会の時にいわれていたような気がする。
防御する、という感覚ではなさそうで、それは先生本人のみぞ知る世界なのだろう。

しかし、具体的な動きの違いを客観的に観察し、自らの主観が変容して行くきっかけになればと思い検証してみた次第であるが、検証する側もある程度の水準に達していなければ、それすらもかなわないかも知れない。


蹴りにつなげるためのアームブロック


直線的な差し


斜面による差し



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10人組み手

2008-08-10 11:36:00 | 格闘技、武道
「太気拳セミナー」終了後、成道会門下生と八田、上山の両練士を交えて連続組み手が行われた。

素面にて顔面への手による攻撃は主に掌底まで、との了解によるものであった(実際には拳が飛んでくることもあったが)。

私自身、連続組み手に向けて特別に準備等していたわけでなく、当日の体調が思わしくなければ止めておこうとも思っていたが、普段の稽古でも有段者が勢揃いすることは滅多にないので、この機会にやってみた次第である。

結果、私自身の組み手に関しては、自己採点30点の出来で、正直言って、とても内外の評価に耐えられる内容ではなかったのであるが、岩間先生から「さりとて恥ずべきものでもない」とのお言葉をいただき、八田練士の連続組み手も併せて、DVDに収録することにした。

この連続組み手は、岩間先生が30代後半から40代の頃、30人~40人という多人数掛けを澤井先生から何回もやらされていたと聞いている。

先生も、連続組み手に備えて特別な稽古等されていた訳ではなかった様で、仕事の接待や飲みごと等で自宅に朝帰りすると、玄関先に靴が何足も置いてあり、澤井先生が弟弟子を引き連れてやって来ているのがすぐわかったそうである。
先生はその靴を数えて「今日は何人連続だな」と組み手のことを想定したらしい。

その中には、島田先生、天野先生、久保先生といった現在、活躍されているそうそうたる先生方もいたわけで、組み手そのものが決して楽なものではなかったことが想像できる。

太気拳の組み手は、従来の格闘技のそれとは趣が異なる。
両手を前に出してフトコロ深く構え、手と手が絡み合う攻防は一種独特のものがある。
太気拳の組み手は素面素手で行われ、それ故に外傷のダメージは深刻で、安易に打ち合い等に持ち込むことは深手を負うリスクを伴うことになる。
そこで、あのフトコロを作った構えは必然的なのかも知れない。

格闘技としての組み手を追求するか、武術としての組み手を追求するか?
組み手自体が各人の考え方によって、その性質が大きく変わるものと考える。
組み手である以上、相手を倒すことが至上目的である。
しかし、必要以上のリスクを犯して勝利を得ることは、自分の身を外敵から守るという目的を持った護身としての武術として合理的なのか?

太気拳において、組み手そのものはあらゆる訓練の実技検証手段であるが、それが大会や試合にて勝利をつかみ取るという目的に変わった場合、その内容は一変するであろう。

澤井先生は「勝敗は己の内にあり」との言葉を残しており、王郷斎先生は「散手(組み手)と実戦は異なる。まず、実戦は戦機(闘争の開始)が自由である」と言っている。

太気拳修行者は、ただ単に勝った負けた、ダメージを与えた、より多く当てた、等といった判断基準から、自身がその中でいかに自由に動くことが出来たかを主たる基準にするべきではないか?
その上で、先述の諸々を評価の材料に加えるべきだろう。

その様に考察すると、今回の私の組み手の自己採点はさらに低いものになってしまうのだが・・・。

この様な組み手の捉え方をすると、従来の格闘技としての打つ、蹴るがそれほどの水準になくとも、太気拳をそれなりに修得してしまうだけで、その人はかなり手強く、又、実にやりづらくなる。
今回やってみて、うちの門下生のうち何名かがそうであった。
皆、30歳を過ぎたクレージーなオヤジたちである。

次回、もし、この様な機会が与えられたなら、もう少しマシな組み手が出来る様に日々の稽古に取り組んでおかねば、と気を引き締める次第である。


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