立禅という名称についてであるが、中国では元々「站椿」と称されている訓練法(当時は正式な呼び名も無かったのではないだろうか)を澤井先生が太気拳の技術書を発刊する際に、日本人向けに新たに立禅という名称にされたのだ、という事を岩間先生からお聞きしたことがある。
這いや、揺り、練り等も当初、正式名称は無かったらしいのだが、この時に名称決定されたらしい。
今後、立禅と言ったり站椿と言ったり紛らわしいかも知れないが、同じことなんだと解釈して頂きたい。
これまで立禅によって発掘された各種能力を、「内勁」と呼び、そのレベルの高低を「勁力」として表現する。
上虚下実による気の降ろし、六面力、矛盾力、三角力、上下を中心とした各種争力、等など、全て内勁のひとつひとつの要素である。
これらは、王郷斎先生とその高弟らによって定義付けられたものである。
王郷斎先生が過去に著した文献によると「站椿の目的は内勁を養成することにある」とある。
更に「内勁とは人間に本来備わっている根源的な能力のことである」とある。
そこで、意拳ではこれらの能力を「根源力」と呼んでいる。
さて、私が岩間先生に師事した頃、立禅に関しては段階的に獲得される勁などに関する指導は一切無く、「ただ、とにかく無心で立て」と言われるのみであった。
王郷斎先生も「站椿を行なう際は一切の欲望を排除すべし」というようなことを、過去にコメントされている。
これは、立禅によって、パンチ力を強化したいとか、岩間先生のような動きを手に入れたいとか、人を飛ばす能力を手に入れたいとか、神秘的な力を身に付けたいとか、それら全てが欲望ということになる。
全てを捨てて、只、無心で立つ。
澤井先生が王先生に弟子入りした際もやっとの思いで入門を果たしたものの、稽古といえば来る日も来る日もなつめの木の前で立禅を組まされるばかりで、もうやめようかと思ったが「日本武士道の名誉にかけて絶対に止めない」と云った内容の血判付き念書を提出しており、逃げ出すわけにもいかなかった、とある。
つまり、立つこと以外は特別に何かを要求する内容ではなかったようである。
成道会では段階によって各種の内勁を捉えていくが、これは、ただ立つことにのみよってでしか知ることのできない何かがあるという事を各自がその体験を持って自覚していくと云うことと、それによって、この一見すると意味不明としか言い様が無い訓練法を継続させることにある。
しかし、立禅とは本来このようなものであるということは知っておかねばならない。
各種の内勁を確認したならば、後はとにかく無心で立つ。
そうでなければ、実際に使いこなしていく段階には到達できないのではないか、と考えている。
参考のために岩間先生が太気拳に開眼したと言われる際のエピソードを紹介しておきたい。
私が先生の下で稽古に励んでいた頃に「10年位前から先生の動きが変わった」というような事を竹田先生にお聞きしたので、現在からさかのぼると27、8年位前で先生が37歳か38歳くらいの頃だと推測される。
当時、ある事情から澤井先生が財産の多くを失ってしまい、生活にも窮するようになってしまっていたらしい。
その時、岩間先生は「澤井先生が生活に困窮する姿等あってはならない」と、自分の月給袋を封も切らずに澤井先生に渡していた。
澤井先生は岩間先生の師を思う真摯な姿勢に心打たれ、「ありがとう、岩間君。わしは今、返せるものは何も無いが、君を必ず強くして見せる。」というような事を言い、それから毎月二回、岩間先生宅を訪れマンツゥマンで稽古をつけるようになった。
稽古といっても立禅や這いを終えると即組み手で、特別な技術指導があったわけではなかったらしい。
組み手が始まると、澤井先生はほとんどノーガードで近づき、いつの間にか岩間先生の目の前にいる。
すると岩間先生は目の前にある老人の顔を打とうとするが、どうしても一瞬躊躇してしまい、次の瞬間には澤井先生の火の出るような掌底が飛んで来る。
いつに間にか後退を余儀なくされ、気が付くと庭中を岩間先生が逃げ、澤井先生が追いかけまわすといった状況になっている。
2階から洗濯物を干しながら組み手の様子を見ていた岩間先生の奥さんが「あんた、澤井先生と首から上をすげ替えた方がいいんじゃない?」と言う位、一方的なものだったらしい。
そんな状態が何日も何回も続いたらしいのだが、ある時に転機が訪れることになる。
岩間先生は元々少林流空手の高段者で、組み手の際は左前手で上段を、右手で中段をしっかりと防御する姿勢で構えていた。
組み手になると相変わらず澤井先生に追いかけまわされる日々が続いていたが、ある時「もう、どうでもいいや」と思うと同時にそれまでのしっかりとした構えがフワリと解け、両手を前に出した独特の柔らかい構えに変化した。
それと同時に澤井先生は動きを止め「よくやった。よくそのことに気が付いた。」と言い「それを忘れるな。今日の稽古はこれまで。」と言ってその日の稽古は終わった。
そして、これを境に岩間先生は急速に変貌を遂げる。
それまでも空手のキャリアからして強かったのだろうが、このことがあって以来、空手家としての動きが一気に太気拳の動きへと変容する。
坪山久朗先生(五段練士)の話によると「稽古で見るたびに岩間先生が次元が違うと言っていい位に強くなっていった」らしい。
やがて、澤井先生門下で突出したナンバーワンとしての存在となる。
これが、澤井先生をして「岩間は気が出た」と言わせしめた際のエピソードである。
先生の弟弟子にあたる先生方から証言を得ている。
先生は、この変貌のきっかけとなった瞬間、何を思い、何を感じたのか?
「もうどうでもいい」と観念した瞬間に全てが変わったのは間違いない。
こだわりや迷いが消えたと言えばそのとおりなのだろう。
何かを捨て、何かを得たとも言えるのかも知れない。
しかし、それは言葉で言い表す事は不可能であろう。
頭で考えて出来ることではなく、本人のみぞ知る世界なのだろう。
そこには、精神や心の働きが大きく関わっていそうである。
立禅では最終的に全てを忘れ、全てがあるというところに到達すべきである。
この段階の目標を目指す成道会会員にとって、先生のエピソードが何らかのヒントになればと思い、今回、紹介した次第である。
2004太気拳合同稽古の際、岩間先生(左)と記念撮影。
何気なく撮った立ち姿であるが、先生と私との間には決定的な差がある事がお分かりいただけるであろうか?
この差が、動きとなるとデジタルとアナログ程の違いになって表れる。
今から3年前のこの時点では、私自身この差に気が付いていながら、それがどういう事なのか分かっていなかったのである。
空手拳法成道会
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這いや、揺り、練り等も当初、正式名称は無かったらしいのだが、この時に名称決定されたらしい。
今後、立禅と言ったり站椿と言ったり紛らわしいかも知れないが、同じことなんだと解釈して頂きたい。
これまで立禅によって発掘された各種能力を、「内勁」と呼び、そのレベルの高低を「勁力」として表現する。
上虚下実による気の降ろし、六面力、矛盾力、三角力、上下を中心とした各種争力、等など、全て内勁のひとつひとつの要素である。
これらは、王郷斎先生とその高弟らによって定義付けられたものである。
王郷斎先生が過去に著した文献によると「站椿の目的は内勁を養成することにある」とある。
更に「内勁とは人間に本来備わっている根源的な能力のことである」とある。
そこで、意拳ではこれらの能力を「根源力」と呼んでいる。
さて、私が岩間先生に師事した頃、立禅に関しては段階的に獲得される勁などに関する指導は一切無く、「ただ、とにかく無心で立て」と言われるのみであった。
王郷斎先生も「站椿を行なう際は一切の欲望を排除すべし」というようなことを、過去にコメントされている。
これは、立禅によって、パンチ力を強化したいとか、岩間先生のような動きを手に入れたいとか、人を飛ばす能力を手に入れたいとか、神秘的な力を身に付けたいとか、それら全てが欲望ということになる。
全てを捨てて、只、無心で立つ。
澤井先生が王先生に弟子入りした際もやっとの思いで入門を果たしたものの、稽古といえば来る日も来る日もなつめの木の前で立禅を組まされるばかりで、もうやめようかと思ったが「日本武士道の名誉にかけて絶対に止めない」と云った内容の血判付き念書を提出しており、逃げ出すわけにもいかなかった、とある。
つまり、立つこと以外は特別に何かを要求する内容ではなかったようである。
成道会では段階によって各種の内勁を捉えていくが、これは、ただ立つことにのみよってでしか知ることのできない何かがあるという事を各自がその体験を持って自覚していくと云うことと、それによって、この一見すると意味不明としか言い様が無い訓練法を継続させることにある。
しかし、立禅とは本来このようなものであるということは知っておかねばならない。
各種の内勁を確認したならば、後はとにかく無心で立つ。
そうでなければ、実際に使いこなしていく段階には到達できないのではないか、と考えている。
参考のために岩間先生が太気拳に開眼したと言われる際のエピソードを紹介しておきたい。
私が先生の下で稽古に励んでいた頃に「10年位前から先生の動きが変わった」というような事を竹田先生にお聞きしたので、現在からさかのぼると27、8年位前で先生が37歳か38歳くらいの頃だと推測される。
当時、ある事情から澤井先生が財産の多くを失ってしまい、生活にも窮するようになってしまっていたらしい。
その時、岩間先生は「澤井先生が生活に困窮する姿等あってはならない」と、自分の月給袋を封も切らずに澤井先生に渡していた。
澤井先生は岩間先生の師を思う真摯な姿勢に心打たれ、「ありがとう、岩間君。わしは今、返せるものは何も無いが、君を必ず強くして見せる。」というような事を言い、それから毎月二回、岩間先生宅を訪れマンツゥマンで稽古をつけるようになった。
稽古といっても立禅や這いを終えると即組み手で、特別な技術指導があったわけではなかったらしい。
組み手が始まると、澤井先生はほとんどノーガードで近づき、いつの間にか岩間先生の目の前にいる。
すると岩間先生は目の前にある老人の顔を打とうとするが、どうしても一瞬躊躇してしまい、次の瞬間には澤井先生の火の出るような掌底が飛んで来る。
いつに間にか後退を余儀なくされ、気が付くと庭中を岩間先生が逃げ、澤井先生が追いかけまわすといった状況になっている。
2階から洗濯物を干しながら組み手の様子を見ていた岩間先生の奥さんが「あんた、澤井先生と首から上をすげ替えた方がいいんじゃない?」と言う位、一方的なものだったらしい。
そんな状態が何日も何回も続いたらしいのだが、ある時に転機が訪れることになる。
岩間先生は元々少林流空手の高段者で、組み手の際は左前手で上段を、右手で中段をしっかりと防御する姿勢で構えていた。
組み手になると相変わらず澤井先生に追いかけまわされる日々が続いていたが、ある時「もう、どうでもいいや」と思うと同時にそれまでのしっかりとした構えがフワリと解け、両手を前に出した独特の柔らかい構えに変化した。
それと同時に澤井先生は動きを止め「よくやった。よくそのことに気が付いた。」と言い「それを忘れるな。今日の稽古はこれまで。」と言ってその日の稽古は終わった。
そして、これを境に岩間先生は急速に変貌を遂げる。
それまでも空手のキャリアからして強かったのだろうが、このことがあって以来、空手家としての動きが一気に太気拳の動きへと変容する。
坪山久朗先生(五段練士)の話によると「稽古で見るたびに岩間先生が次元が違うと言っていい位に強くなっていった」らしい。
やがて、澤井先生門下で突出したナンバーワンとしての存在となる。
これが、澤井先生をして「岩間は気が出た」と言わせしめた際のエピソードである。
先生の弟弟子にあたる先生方から証言を得ている。
先生は、この変貌のきっかけとなった瞬間、何を思い、何を感じたのか?
「もうどうでもいい」と観念した瞬間に全てが変わったのは間違いない。
こだわりや迷いが消えたと言えばそのとおりなのだろう。
何かを捨て、何かを得たとも言えるのかも知れない。
しかし、それは言葉で言い表す事は不可能であろう。
頭で考えて出来ることではなく、本人のみぞ知る世界なのだろう。
そこには、精神や心の働きが大きく関わっていそうである。
立禅では最終的に全てを忘れ、全てがあるというところに到達すべきである。
この段階の目標を目指す成道会会員にとって、先生のエピソードが何らかのヒントになればと思い、今回、紹介した次第である。
2004太気拳合同稽古の際、岩間先生(左)と記念撮影。
何気なく撮った立ち姿であるが、先生と私との間には決定的な差がある事がお分かりいただけるであろうか?
この差が、動きとなるとデジタルとアナログ程の違いになって表れる。
今から3年前のこの時点では、私自身この差に気が付いていながら、それがどういう事なのか分かっていなかったのである。
空手拳法成道会
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