現在、成道会の推手としては、打輪がしっかりと出来るようになるということを最初の目標に設定している。
相手の打撃を防御している瞬間の状態が継続されていることが条件となり、つばぜり合いの状態を維持することをお互いが承知して行うことでこの訓練が成立する。
打撃を受け止められたら、その状態から相手の腕をつぶす、落とす、払う、上にすり上げて相手の重心を浮かす、いわゆる根から引き抜くとなどといった、相手の体勢を少しずつ崩して弱体化させる内容が実は打輪に含まれている。
傍から見ていると、軽く手を触れ合わせてお互いに回しているだけにしか見えないが、実際はこのような攻防が含まれており、油断したら接触している腕が拳となり、貫き手となり、あるいは掌打、肘打ちとなって自身に向かってくるという前提で行なうので、気を抜けなくなるし、接触した腕ごと自身の身体を浮かされたり、構えている腕をつぶされたりするとそのまま打撃の侵入を許してしまうので、自身の体勢も立禅で養成した構造能力をもって頑強な状態でありながらも迅速に動ける状態であることが要求される。
その様な打輪を続けていると、パンチが重くなってくるし、より力の漏れの少ない、硬い性質の打撃に変化する。つまり、打撃の強化につながってくる。
又、練りの中にある差し手、迎え手なども強化されてくるので、実際の使用により近付く。
打撃力、防御力、共に相手と接触した瞬時の自身の体勢が緩みのない強い状態であることを養成する強化訓練となる。
推手が双人試力と呼ばれるのはその様な特性があるからと考えられ、打輪そのものが立禅によって養成された構造能力の点検と強化になる。
意図的にそのようにするべきだと考える。
見ているだけではその人の腕の重さ、強さはわからないので、実際に指導者がその人と打輪を行ってみてそのレベルを判断するしかない。
打輪においてそれなりの強さと隙のなさが確認できるまでは、これを課題として次の段階には進ませない。
推手の基本を打輪と位置づけて、その修得には必要なだけ時間をかける。
推手鍛錬の根幹とも言えるので妥協することはできない。
恐らく、この単純な動作の鍛錬は、さまざまな技術を身に付けてもいつまでも課題になると思う。
実際に打輪の動作だけでも組み手の中で活用して、相手の体勢を崩していくことが出来るようになる。
その段階を完全でなくともある程度クリアできたら、その上で、相手の構えを割って入って飛ばしたり、構えごと相手の身体を運んだり、腕を払って後ろ向きにしたり、下に崩してみたり、等といった推手攻防に入る。
このあたりはその人の個性が出てくると思うし、自由に攻防方法を研究して実験していってもかまわないと思う。
更に、その段階がある程度出来るようになったら、推手状態からのマスレベルの打撃を導入して実際の攻防に近付けたシュミレーション的な内容を適時研究していく。
それと並行して、離れた状態から瞬時に腕をぶつけていったり、くっつけたり、パンチから推手に移行したりといった、実際の場面に即した状態での訓練もマスレベルで行なって行く。
打輪の修得
(立禅によって養成された構造能力の検証と強化、接近戦での基本鍛錬)
↓
推手攻防
(接近戦での体崩し、技術の研究)
↓
打撃との連動研究、離れた状態からの瞬間的な推手の活用の研究
(より実際的なシュミレーション)
第1段階の打輪の修得が最も地味だし、根気も必要となるが、これなくして次の段階に進んでも、推手のための推手として終わってしまう可能性が高くなる。
実際に活用できて、推手そのものが強化としての役割を果たしてくれるには、打輪の修得と研究が絶対的に必要であると考える。
そのため、ステップアップに個人差が出てきたとしても致し方なく、しかし、修得してしまえばいつまでもその人のものになる。
通常、稽古の中で定期的に行なうのは第2段階までが妥当で、第3段階は応用編として時々だけでよいと考える。
繰り返すが、様々な推手の技術を身に付けても最後まで打輪が最重要な鍛錬として位置付けられることは変わらないと考えているので、あまり技巧に走ることなく基本的な能力の養成を重視して鍛錬し続けるべきだと考える。
私自身、推手を構造能力の強化と点検としての手段としてとらえ、太氣拳特有の攻防技術の訓練としてとらえられるようになってきたので、推手で崩されてもムキになって崩し返そうとしたりして、その結果、組み手本来の攻防からかけ離れた推手に陥ることは少なくなってきていると思う。
むしろ、推手で使ったこの技術は実際の組み手攻防で役に立ちそうか、そうでないか、ということを検証し、推手ではよくても、あまり実際の攻防の役に立ちそうでなければ、すぐに捨て去るというようにして、あくまでも訓練のひとつとして活用していくべきだと思う。
佐藤先生は「推手は競技ではないし、推手を理解している人同士でやらないと、推手をわかっていない人とやっても意味がない」と言われていた。
成道会としての推手はまだまだこれからであるが、会員各位にはその趣旨を充分に理解して、時間をかけてこの課題に取り組んでいってくれることを希望する。
太氣拳成道会
http://www.joudou.jp
相手の打撃を防御している瞬間の状態が継続されていることが条件となり、つばぜり合いの状態を維持することをお互いが承知して行うことでこの訓練が成立する。
打撃を受け止められたら、その状態から相手の腕をつぶす、落とす、払う、上にすり上げて相手の重心を浮かす、いわゆる根から引き抜くとなどといった、相手の体勢を少しずつ崩して弱体化させる内容が実は打輪に含まれている。
傍から見ていると、軽く手を触れ合わせてお互いに回しているだけにしか見えないが、実際はこのような攻防が含まれており、油断したら接触している腕が拳となり、貫き手となり、あるいは掌打、肘打ちとなって自身に向かってくるという前提で行なうので、気を抜けなくなるし、接触した腕ごと自身の身体を浮かされたり、構えている腕をつぶされたりするとそのまま打撃の侵入を許してしまうので、自身の体勢も立禅で養成した構造能力をもって頑強な状態でありながらも迅速に動ける状態であることが要求される。
その様な打輪を続けていると、パンチが重くなってくるし、より力の漏れの少ない、硬い性質の打撃に変化する。つまり、打撃の強化につながってくる。
又、練りの中にある差し手、迎え手なども強化されてくるので、実際の使用により近付く。
打撃力、防御力、共に相手と接触した瞬時の自身の体勢が緩みのない強い状態であることを養成する強化訓練となる。
推手が双人試力と呼ばれるのはその様な特性があるからと考えられ、打輪そのものが立禅によって養成された構造能力の点検と強化になる。
意図的にそのようにするべきだと考える。
見ているだけではその人の腕の重さ、強さはわからないので、実際に指導者がその人と打輪を行ってみてそのレベルを判断するしかない。
打輪においてそれなりの強さと隙のなさが確認できるまでは、これを課題として次の段階には進ませない。
推手の基本を打輪と位置づけて、その修得には必要なだけ時間をかける。
推手鍛錬の根幹とも言えるので妥協することはできない。
恐らく、この単純な動作の鍛錬は、さまざまな技術を身に付けてもいつまでも課題になると思う。
実際に打輪の動作だけでも組み手の中で活用して、相手の体勢を崩していくことが出来るようになる。
その段階を完全でなくともある程度クリアできたら、その上で、相手の構えを割って入って飛ばしたり、構えごと相手の身体を運んだり、腕を払って後ろ向きにしたり、下に崩してみたり、等といった推手攻防に入る。
このあたりはその人の個性が出てくると思うし、自由に攻防方法を研究して実験していってもかまわないと思う。
更に、その段階がある程度出来るようになったら、推手状態からのマスレベルの打撃を導入して実際の攻防に近付けたシュミレーション的な内容を適時研究していく。
それと並行して、離れた状態から瞬時に腕をぶつけていったり、くっつけたり、パンチから推手に移行したりといった、実際の場面に即した状態での訓練もマスレベルで行なって行く。
打輪の修得
(立禅によって養成された構造能力の検証と強化、接近戦での基本鍛錬)
↓
推手攻防
(接近戦での体崩し、技術の研究)
↓
打撃との連動研究、離れた状態からの瞬間的な推手の活用の研究
(より実際的なシュミレーション)
第1段階の打輪の修得が最も地味だし、根気も必要となるが、これなくして次の段階に進んでも、推手のための推手として終わってしまう可能性が高くなる。
実際に活用できて、推手そのものが強化としての役割を果たしてくれるには、打輪の修得と研究が絶対的に必要であると考える。
そのため、ステップアップに個人差が出てきたとしても致し方なく、しかし、修得してしまえばいつまでもその人のものになる。
通常、稽古の中で定期的に行なうのは第2段階までが妥当で、第3段階は応用編として時々だけでよいと考える。
繰り返すが、様々な推手の技術を身に付けても最後まで打輪が最重要な鍛錬として位置付けられることは変わらないと考えているので、あまり技巧に走ることなく基本的な能力の養成を重視して鍛錬し続けるべきだと考える。
私自身、推手を構造能力の強化と点検としての手段としてとらえ、太氣拳特有の攻防技術の訓練としてとらえられるようになってきたので、推手で崩されてもムキになって崩し返そうとしたりして、その結果、組み手本来の攻防からかけ離れた推手に陥ることは少なくなってきていると思う。
むしろ、推手で使ったこの技術は実際の組み手攻防で役に立ちそうか、そうでないか、ということを検証し、推手ではよくても、あまり実際の攻防の役に立ちそうでなければ、すぐに捨て去るというようにして、あくまでも訓練のひとつとして活用していくべきだと思う。
佐藤先生は「推手は競技ではないし、推手を理解している人同士でやらないと、推手をわかっていない人とやっても意味がない」と言われていた。
成道会としての推手はまだまだこれからであるが、会員各位にはその趣旨を充分に理解して、時間をかけてこの課題に取り組んでいってくれることを希望する。
太氣拳成道会
http://www.joudou.jp