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成道会の推手

2015-02-13 07:58:00 | 格闘技、武道
現在、成道会の推手としては、打輪がしっかりと出来るようになるということを最初の目標に設定している。

相手の打撃を防御している瞬間の状態が継続されていることが条件となり、つばぜり合いの状態を維持することをお互いが承知して行うことでこの訓練が成立する。
打撃を受け止められたら、その状態から相手の腕をつぶす、落とす、払う、上にすり上げて相手の重心を浮かす、いわゆる根から引き抜くとなどといった、相手の体勢を少しずつ崩して弱体化させる内容が実は打輪に含まれている。

傍から見ていると、軽く手を触れ合わせてお互いに回しているだけにしか見えないが、実際はこのような攻防が含まれており、油断したら接触している腕が拳となり、貫き手となり、あるいは掌打、肘打ちとなって自身に向かってくるという前提で行なうので、気を抜けなくなるし、接触した腕ごと自身の身体を浮かされたり、構えている腕をつぶされたりするとそのまま打撃の侵入を許してしまうので、自身の体勢も立禅で養成した構造能力をもって頑強な状態でありながらも迅速に動ける状態であることが要求される。

その様な打輪を続けていると、パンチが重くなってくるし、より力の漏れの少ない、硬い性質の打撃に変化する。つまり、打撃の強化につながってくる。
又、練りの中にある差し手、迎え手なども強化されてくるので、実際の使用により近付く。
打撃力、防御力、共に相手と接触した瞬時の自身の体勢が緩みのない強い状態であることを養成する強化訓練となる。

推手が双人試力と呼ばれるのはその様な特性があるからと考えられ、打輪そのものが立禅によって養成された構造能力の点検と強化になる。
意図的にそのようにするべきだと考える。

見ているだけではその人の腕の重さ、強さはわからないので、実際に指導者がその人と打輪を行ってみてそのレベルを判断するしかない。
打輪においてそれなりの強さと隙のなさが確認できるまでは、これを課題として次の段階には進ませない。
推手の基本を打輪と位置づけて、その修得には必要なだけ時間をかける。
推手鍛錬の根幹とも言えるので妥協することはできない。
恐らく、この単純な動作の鍛錬は、さまざまな技術を身に付けてもいつまでも課題になると思う。

実際に打輪の動作だけでも組み手の中で活用して、相手の体勢を崩していくことが出来るようになる。

その段階を完全でなくともある程度クリアできたら、その上で、相手の構えを割って入って飛ばしたり、構えごと相手の身体を運んだり、腕を払って後ろ向きにしたり、下に崩してみたり、等といった推手攻防に入る。
このあたりはその人の個性が出てくると思うし、自由に攻防方法を研究して実験していってもかまわないと思う。

更に、その段階がある程度出来るようになったら、推手状態からのマスレベルの打撃を導入して実際の攻防に近付けたシュミレーション的な内容を適時研究していく。

それと並行して、離れた状態から瞬時に腕をぶつけていったり、くっつけたり、パンチから推手に移行したりといった、実際の場面に即した状態での訓練もマスレベルで行なって行く。

打輪の修得
(立禅によって養成された構造能力の検証と強化、接近戦での基本鍛錬)
  ↓
推手攻防
(接近戦での体崩し、技術の研究)
  ↓
打撃との連動研究、離れた状態からの瞬間的な推手の活用の研究
(より実際的なシュミレーション)

第1段階の打輪の修得が最も地味だし、根気も必要となるが、これなくして次の段階に進んでも、推手のための推手として終わってしまう可能性が高くなる。
実際に活用できて、推手そのものが強化としての役割を果たしてくれるには、打輪の修得と研究が絶対的に必要であると考える。
そのため、ステップアップに個人差が出てきたとしても致し方なく、しかし、修得してしまえばいつまでもその人のものになる。
通常、稽古の中で定期的に行なうのは第2段階までが妥当で、第3段階は応用編として時々だけでよいと考える。

繰り返すが、様々な推手の技術を身に付けても最後まで打輪が最重要な鍛錬として位置付けられることは変わらないと考えているので、あまり技巧に走ることなく基本的な能力の養成を重視して鍛錬し続けるべきだと考える。

私自身、推手を構造能力の強化と点検としての手段としてとらえ、太氣拳特有の攻防技術の訓練としてとらえられるようになってきたので、推手で崩されてもムキになって崩し返そうとしたりして、その結果、組み手本来の攻防からかけ離れた推手に陥ることは少なくなってきていると思う。
むしろ、推手で使ったこの技術は実際の組み手攻防で役に立ちそうか、そうでないか、ということを検証し、推手ではよくても、あまり実際の攻防の役に立ちそうでなければ、すぐに捨て去るというようにして、あくまでも訓練のひとつとして活用していくべきだと思う。

佐藤先生は「推手は競技ではないし、推手を理解している人同士でやらないと、推手をわかっていない人とやっても意味がない」と言われていた。

成道会としての推手はまだまだこれからであるが、会員各位にはその趣旨を充分に理解して、時間をかけてこの課題に取り組んでいってくれることを希望する。


太氣拳成道会
http://www.joudou.jp


推手

2015-02-01 20:32:00 | 格闘技、武道
昨年9月に稽古内容の見直しについてコメントしたが、最重要な見直し課目は推手であった。

私が太氣拳に取り組むきっかけとなった岩間先生のもとでの稽古では推手は行われていなかった。
岩間先生は推手ができるし、実際に手が触れた瞬間の変化は絶妙で、あっという間に体勢を崩されてしまうという経験は何回もしている。
しかし、推手そのものの訓練は行われておらず、岩間先生の、あの腕と腕とが接触した時の瞬時の変化はどのようにして養成されたのか、その当時は全く明らかでなかった。
当時、元々は他の先生のもとで太氣拳を学んで、その後、岩間先生の門下生となった木村さん(現・宏道会代表)やドイツから来られていたバウへさんから、稽古の終わった後に推手の手ほどきを受けた程度で、推手自体の本格的な訓練は経験できなかった。
つまり、私は推手というものを全く知らなかったのである。

その後、福岡に戻り、稽古を続けていたが、成道会発足以前の有志達との稽古の中で推手を研究し始めた。
他の中国拳法の経験のある門下生より練習方法を提案してもらったりして、手探りで推手の練習を続けていたところ、それなりに推手による攻防ができるようにはなっていた。

その後、今から10年前の平成16年8月にヨーロッパからカレンバッハ先生が来日され、太氣拳一門による合同稽古が東京代々木の明治神宮で開催され、その時にはじめて佐藤聖二先生にお会いして、加藤徹先生より「聖二さんと推手をやってみな。全然違うから」と、ご紹介を得て推手をさせていただいた。
結果は完全に一方的な内容で、私はまるで操り人形のように崩されるや、回されるや、立ち木に打ち飛ばされるやで、自分でもどのように崩されたのか全くわからないほどで、レベルが違うなどといった問題ではなく、本質的なものが全く違っていた。
その違いは後に佐藤先生のご指導を仰ぐになってから少しずつわかってきて、そのあたりが、現在の推手の見直しにもつながっている。

その際、佐藤先生から推手に関するアドバイスをいくつかいただいており、成道会内部の推手に反映させようとしたが、思うように行かず、それまでの推手とそれほど変わらない状態での稽古を続けていた。
当時の推手を振り返ると、軽く手を触れ合わせた状態で相手を崩そうと躍起になっていたが、その崩しが組み手で発揮されることはなく、私の中では組み手と推手が分離しており、このような推手をやり続けることに意味があるのか、と本心では疑問を持ち続けていた。
元々、その当時の推手もあまり上手いとは言えず、推手そのものがストレスになっていた部分もあったが、それでも稽古体系の中から外さずにいた。

平成22年より佐藤先生のご指導を受けるようになって、福岡や神戸の拳学研究会の方々とも推手をさせていただくようになってわかったのだが、接触した腕の重さ、硬さが全く違い、打輪と呼ばれる腕をあわせた状態でゆっくり回す訓練で、数回も回しているうちに、重心が踵側に持っていかれて不安定な状態にされてしまい、次の瞬間には考える間もなく体勢を崩されてしまう。

最初に腕と腕とが接触した時点でのこの状態が根本的に違っていた。

それまでは太極拳などで行われているように、軽く腕を触れ合わせて相手の力を感じ取って、それを利用して、相手の体勢を崩しにかかるというものであった。
相手の構えにぶつかる、構えを壊す、つぶす、という発想は全くなかった。
当然、構えを壊されようとしている、つぶされようとしていることに対して備えるという発想もなかった。

それが、接触した時点で異様な圧力がこちらの中心に向かってきて、対応しなければ、それだけで、その場に立っていられないような感じで、それが、剣術の世界で言う「つば競り合い」のような状態、それを前提とした推手打輪が行われていた。

それまで、意拳のビデオを参考にして推手を研究していたつもりであったが、その動きは見ただけでは分からない、実際に触れてみて初めて分かる「百聞は一見にしかず、百見は一触にしかず」の世界そのものであった。
私の経験上、意拳の推手などを映像で確認することはできるが、それを映像だけで学ぶ、盗むということは絶対に不可能で、仮に同じような動きができたとしても、できたつもりでも、その中身は全く異なると考えたほうがいいと思う。
それまでの私がそうであったのだから。

実際に上級者の手に触れてみて、自身の身体で認識して、その上で推手訓練を繰り返すことで、実際の攻防に生かされる、武術として、生きた推手としての諸々が養成される重要な訓練法となるものと考える。

次回、成道会としての具体的な推手の目標、目的や意義などに入って行きたい。
現在、推手アレルギーに陥っているかも知れない門下生は、稽古の時だけでは伝えきれないメッセージとして受け取ってもらいたいと思う。


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