立禅においては、真っ先に自身の身体を「氣の通った状態」「氣が流れている状態」にすることが要求される。
呼吸の際、息をゆっくりと吐くことで身体の余分な緊張を取り去りリラックスさせることが出来る。
息をゆっくりと吸ったら、次にゆっくりと息を吐く。その際に、身体の重みを感じるようにする。
筋肉は、力を込めると石のように硬くもなるが、力を抜いて緩んでいくとお餅のように柔らかくなる。
緩んだ筋肉は付着している骨格に垂れ下がるような状態になるので、自然と重みを感じ取ることができる。
力を込めた状態は感覚しやすく、力を抜いた状態は感覚しにくいが、身体の重み、ズッシリ感を感じることが脱力ができているかどうかの手がかりになる。
この身体の重み、ズッシリ感を身体の最下部に置くことで、より全身の筋肉を弛緩させた、より脱力した状態となる。
これが「氣を降ろした」状態である。
次いで、息を吐くときに身体に氣が通るとイメージする。
腕であれば「腕に気を通す」、足であれば「足に氣を通す」といった具合である。
呼吸の呼気(息を吐くこと)による筋肉の弛緩作用を用いて、筋肉を緩めると同時に氣が通るとイメージすると、実際に身体の中に心地よい何かが流れていくのが感じ取れる。
これは、筋肉が緩むことによって毛細血管が拡張して血液の流れが引き上げられたためであり、心地よいと感じるのは血液の流れである。
「氣・血・水の原理」に基づき、氣は血の流れを先導すると言われる。
氣の流れるところに血は流れるとされる。
氣は五感で感じることはできないが、その作用はある。
とするならば、氣の流れを感じることできないが、氣の流れに先導された血液の流れを身体の中で感じ取ることは出来る。
であるから「血を通す」と言ってもよいのだが、「氣を通す」とイメージした方が身体に作用しやすい。
呼吸と「氣」の通り具合、すなわち、呼吸と筋肉の弛緩作用には密接な関係があり、呼吸のコントロールが重要となる。
ただし、何かを意図した特別な呼吸法を行うわけではなく、自然な呼吸を心がける。
気功法で行われる小周天は有効であり、王薌斎先生の著書にもそれが紹介されていた記憶があるので、一時期、王薌斎先生も取り入れいたものと考えられる。
小周天のやり方は、息を吸いながら足の裏から氣を吸い上げ、背中側の督脈という経絡を通し、頭のてっぺんの百会という経穴(ツボ)を通過させ、身体の前側の任脈という経絡を通して氣を下降させ、足の裏を通じて地面に戻す。というもので、体幹から手足に氣を通していく、つまり体幹から手足までの筋肉状態を調整するのに有効である。
「氣の通った身体」になると筋肉中の余分な緊張がなくなり、血流のよくなった状態は快適であり、その様な状態での運動は、筋肉が伸筋、屈筋ともに緊張した、いわゆる「共縮」というこわばった様な筋肉状態をより排除することが出来やすく、伸筋主導の理想的な運動状態に移行しやすくなる。
なので、「氣を通した身体」であることが武術においては真っ先に要求される。
「氣を通す」といった状態がさらに進むと、「氣が出た」という状態に移行すると考えられるが、この段階に到達するのは容易ではないものと思われる。
氣が身体の中を流れている状態を超えて、身体の外に放出されるほどにリラックスしているわけで、物事の考え方や感じ方、価値観、人生観を含めた何かが大きく変わる必要があると考えられるからである。
こだわりが極端に無くなると言ってよいのかも知れない。
それが武術としての動きを左右するのであるが、氣を出そう出そうとすればするほど出なくなり、返って妙なこわばりを招く可能性もある。
筋肉状態と精神状態には密接な関係があり、そこに「氣」の概念を介在させることで、武術としての動きがより進化する。
それは人体の生理学的なものを超えた特別なものではなく、むしろ、当たり前のことであって、それによって起こる現象も物理的、力学的な内容を超えることはない。
私個人としては、「指先が伸びる」「全身の関節が開く」「全身の毛穴が開く」といったイメージによる骨格構造の構築作業と、「氣を通す」というイメージによって血流、及び、筋肉状態の調整を併用することで、立禅の際の構造能力の強化と調整に役立てている。
太氣拳成道会
http://www.joudou.jp/
呼吸の際、息をゆっくりと吐くことで身体の余分な緊張を取り去りリラックスさせることが出来る。
息をゆっくりと吸ったら、次にゆっくりと息を吐く。その際に、身体の重みを感じるようにする。
筋肉は、力を込めると石のように硬くもなるが、力を抜いて緩んでいくとお餅のように柔らかくなる。
緩んだ筋肉は付着している骨格に垂れ下がるような状態になるので、自然と重みを感じ取ることができる。
力を込めた状態は感覚しやすく、力を抜いた状態は感覚しにくいが、身体の重み、ズッシリ感を感じることが脱力ができているかどうかの手がかりになる。
この身体の重み、ズッシリ感を身体の最下部に置くことで、より全身の筋肉を弛緩させた、より脱力した状態となる。
これが「氣を降ろした」状態である。
次いで、息を吐くときに身体に氣が通るとイメージする。
腕であれば「腕に気を通す」、足であれば「足に氣を通す」といった具合である。
呼吸の呼気(息を吐くこと)による筋肉の弛緩作用を用いて、筋肉を緩めると同時に氣が通るとイメージすると、実際に身体の中に心地よい何かが流れていくのが感じ取れる。
これは、筋肉が緩むことによって毛細血管が拡張して血液の流れが引き上げられたためであり、心地よいと感じるのは血液の流れである。
「氣・血・水の原理」に基づき、氣は血の流れを先導すると言われる。
氣の流れるところに血は流れるとされる。
氣は五感で感じることはできないが、その作用はある。
とするならば、氣の流れを感じることできないが、氣の流れに先導された血液の流れを身体の中で感じ取ることは出来る。
であるから「血を通す」と言ってもよいのだが、「氣を通す」とイメージした方が身体に作用しやすい。
呼吸と「氣」の通り具合、すなわち、呼吸と筋肉の弛緩作用には密接な関係があり、呼吸のコントロールが重要となる。
ただし、何かを意図した特別な呼吸法を行うわけではなく、自然な呼吸を心がける。
気功法で行われる小周天は有効であり、王薌斎先生の著書にもそれが紹介されていた記憶があるので、一時期、王薌斎先生も取り入れいたものと考えられる。
小周天のやり方は、息を吸いながら足の裏から氣を吸い上げ、背中側の督脈という経絡を通し、頭のてっぺんの百会という経穴(ツボ)を通過させ、身体の前側の任脈という経絡を通して氣を下降させ、足の裏を通じて地面に戻す。というもので、体幹から手足に氣を通していく、つまり体幹から手足までの筋肉状態を調整するのに有効である。
「氣の通った身体」になると筋肉中の余分な緊張がなくなり、血流のよくなった状態は快適であり、その様な状態での運動は、筋肉が伸筋、屈筋ともに緊張した、いわゆる「共縮」というこわばった様な筋肉状態をより排除することが出来やすく、伸筋主導の理想的な運動状態に移行しやすくなる。
なので、「氣を通した身体」であることが武術においては真っ先に要求される。
「氣を通す」といった状態がさらに進むと、「氣が出た」という状態に移行すると考えられるが、この段階に到達するのは容易ではないものと思われる。
氣が身体の中を流れている状態を超えて、身体の外に放出されるほどにリラックスしているわけで、物事の考え方や感じ方、価値観、人生観を含めた何かが大きく変わる必要があると考えられるからである。
こだわりが極端に無くなると言ってよいのかも知れない。
それが武術としての動きを左右するのであるが、氣を出そう出そうとすればするほど出なくなり、返って妙なこわばりを招く可能性もある。
筋肉状態と精神状態には密接な関係があり、そこに「氣」の概念を介在させることで、武術としての動きがより進化する。
それは人体の生理学的なものを超えた特別なものではなく、むしろ、当たり前のことであって、それによって起こる現象も物理的、力学的な内容を超えることはない。
私個人としては、「指先が伸びる」「全身の関節が開く」「全身の毛穴が開く」といったイメージによる骨格構造の構築作業と、「氣を通す」というイメージによって血流、及び、筋肉状態の調整を併用することで、立禅の際の構造能力の強化と調整に役立てている。
太氣拳成道会
http://www.joudou.jp/