心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

宮沢賢治「永訣の朝」と法華経 1

2018年02月10日 | 法華経

 宮沢賢治は、今から100年ほど前、大正時代の終わりから昭和の初めにかけて、数多くの童話や詩を書いた人です。

今でこそ、「銀河鉄道の夜」「雨ニモマケズ」「注文の多い料理店」など多くの作品が人々に愛されていますが、生前、彼の作品はほとんど知られていませんでした。

 「永訣の朝」は、賢治26歳の時に、妹トシを失った悲しみを歌った詩です。女子大学を優秀な成績で卒業して、さあ、これから世のために働きたいと願っていた妹が、結核に冒され24歳の若さでこの世を去らねばなりませんでした。

賢治は妹の死を嘆き悲しみながら、人としてどう生きることが幸せかに気づき、この詩を書きました。


 「永訣の朝」は、中学校や高校の教科書にも掲載され、賢治がどんな思いを込めたのか、多くの解説があり、文学的解釈があります。しかし、ほとんどの解説や解釈は、法華経を表面的にしか理解していないなあと感じます。


 賢治は法華経を熱心に信仰していました。法華経の理解なしに賢治の文学をほんとうに理解することはできないと思います。
 毎日法華経を読んでいる者の視点から、「永訣の朝」を読んで、気づいたことを書いてみたいと思います。

「永訣の朝」(青空文庫)

1 「あんなおそろしいみだれたそらから このうつくしい雪がきたのだ」

熱に苦しみ、今まさに死にいこうとしている賢治の妹トシが、最後の頼みとして、「冷たいさっぱりとした雪を取ってきてください」とあえぎあえぎ伝えます。それを聞いた賢治は大急ぎで庭に出て、きれいな雪を選んで持って帰ろうとします。

 この雪はどこをえらばうにも
 あんまりどこもまっしろなのだ
 あんなおそろしいみだれたそらから
 このうつくしい雪がきたのだ

法華経(妙法蓮華経)は、サンスクリットで「サダルマ フンダリカ スートラ」と言い、「白い蓮華のような正しい教え」という意味です。「濁った泥の中から清らかな花を咲かせる蓮のように、この濁世にあってすべての衆生を救う本当の教え」という意味です。

「永訣の朝」と同じ頃に作られた「オホーツク挽歌」という詩には、「ナモ サダルマ フンダリカ スートラ」という句が何度も繰り返されています。「ナモ」とは、南無すなわち「帰依する」「信じる」という意味。南無妙法蓮華経をサンスクリットで表現しています。

妙法蓮華経従地涌出品(じゅじゆじゅっぽん)第十五には、

 世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し(不染世間法 如蓮華在水)
という句があり、日蓮宗の僧侶なら何度も何度も口にしたことのある言葉です。

「濁った泥の中から清らかな花を咲かせる蓮のように、この濁世にあってすべての衆生を救う存在でありたい。」という願いを込めてこの句を唱えます。

「あんなおそろしいみだれたそらから このうつくしい雪がきたのだ」という詩句は、妹に頼まれ大急ぎで外に出た賢治が、目の前の光景が「濁った泥の中から、清らかな花を咲かせる蓮のような教え」すなわち、法華経の教えそのものだと気づき、改めて感動しているのだと思います。

つづく

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