この写真は、6月16日の朝、父島から硫黄島に小笠原丸が着いて、いよいよこれから上陸が始まるという時に撮影した写真です。小笠原丸から擂鉢山の方向を撮りました。
この上陸作業は、毎回、非常に大変で緊張感が高まります。硫黄島には港がないために沖合で停泊する小笠原丸から、父島から一緒に乗ってきた漁師の皆さんの艀(はしけ)に、小笠原丸から10人ずつぐらい乗り込んで、硫黄島の釡岩という場所の近くに送り届けてもらって上陸をします。
釡岩は、戦前、住民が住んでいた頃は硫黄島の沖合にあった島であったものが、その後の隆起で、硫黄島と地続きになった場所です。その場所が、湾のような形になっている場所が、小笠原丸の停泊場所です。
少しの波やうねりでも、小笠原丸が揺れると、舷側の開口部にとりつけられたフローティングの乗り場に飛び移る時に、フローティング部側は海面に浮いていますから、船の動きで上下する開口部との間では、上がったり下がったりが大きくなってしまい、飛び移るのが困難で危険になります。
言葉でお伝えするのが難しいのですが、船内側からフローティング部分を見て、タイミングよく飛び移るのですが、開口部に対してフローティング部の乗り移る面が、大きく上下することになります。
今年の硫黄島へ慰霊墓参の旅の参加対象者は、例年よりも制限されて少ない人数になりました。私たち戦前在住者と子孫の旧島民グループと小笠原中学校、母島中学校の皆さんは例年どおり参加でしたが、遺族の関係の硫黄島協会の皆さんと小笠原村の一般枠の皆さん(硫黄島出身者や子孫ではない島民の方のご参加の枠)は今年は、参加できませんでした。理由は、硫黄島の隆起による小笠原丸停泊場所あたりの海底地形の変化によって停泊できる場所と条件が変わってしまい、下船上陸と乗船にかけられる時間が短くなり安全に降ろして上陸させたり収容したりすることができる人数が絞られることになったためです。
この日、船は、硫黄島の海岸線に平行に、釡岩上陸地点に向かってはほぼ垂直に停泊をしていましたが、島への波と船の揺れとがタイミングがあって同調してしまうと、かなりの角度で、左右に傾いていました。開口部が上がったり下がったりが、かなりの高低差でした。
(次回に続く)
この上陸作業は、毎回、非常に大変で緊張感が高まります。硫黄島には港がないために沖合で停泊する小笠原丸から、父島から一緒に乗ってきた漁師の皆さんの艀(はしけ)に、小笠原丸から10人ずつぐらい乗り込んで、硫黄島の釡岩という場所の近くに送り届けてもらって上陸をします。
釡岩は、戦前、住民が住んでいた頃は硫黄島の沖合にあった島であったものが、その後の隆起で、硫黄島と地続きになった場所です。その場所が、湾のような形になっている場所が、小笠原丸の停泊場所です。
少しの波やうねりでも、小笠原丸が揺れると、舷側の開口部にとりつけられたフローティングの乗り場に飛び移る時に、フローティング部側は海面に浮いていますから、船の動きで上下する開口部との間では、上がったり下がったりが大きくなってしまい、飛び移るのが困難で危険になります。
言葉でお伝えするのが難しいのですが、船内側からフローティング部分を見て、タイミングよく飛び移るのですが、開口部に対してフローティング部の乗り移る面が、大きく上下することになります。
今年の硫黄島へ慰霊墓参の旅の参加対象者は、例年よりも制限されて少ない人数になりました。私たち戦前在住者と子孫の旧島民グループと小笠原中学校、母島中学校の皆さんは例年どおり参加でしたが、遺族の関係の硫黄島協会の皆さんと小笠原村の一般枠の皆さん(硫黄島出身者や子孫ではない島民の方のご参加の枠)は今年は、参加できませんでした。理由は、硫黄島の隆起による小笠原丸停泊場所あたりの海底地形の変化によって停泊できる場所と条件が変わってしまい、下船上陸と乗船にかけられる時間が短くなり安全に降ろして上陸させたり収容したりすることができる人数が絞られることになったためです。
この日、船は、硫黄島の海岸線に平行に、釡岩上陸地点に向かってはほぼ垂直に停泊をしていましたが、島への波と船の揺れとがタイミングがあって同調してしまうと、かなりの角度で、左右に傾いていました。開口部が上がったり下がったりが、かなりの高低差でした。
(次回に続く)