オ気楽ナ・・・毎日

休日のドライブや旅先で見つけたモノを紹介しています。
主に、山口県内。たいして珍しいものはないかも・・・

淡海道

2013-10-13 01:12:30 | 山口県の史跡関係

光市の中心部を流れる「島田川」を下流から遡っていきますと、旧熊毛町と旧周東町の境あたり、両側から山が迫った渓谷のようになっています。

この上流側、つまり玖珂盆地は、太古の昔、広大な湖でした。
この地点から流れ出す水が谷を削り、それにしたがって湖の水が抜けて、今のような地形になったわけです。

しかし、室町時代までは、削り残された固い岩盤でせき止められた水が残り、すぐ上流の差川地区のあたりは、まだ湖のままであったようです。
「白滝」という地名も残っていて、堰き止められていた湖水が落ちる、豪快な滝があったんでしょうね。

室町中期の頃から、水を堰き止めていた岩盤も崩れて上流側の水がひいていきます。
陸地化した土地に人が定着して、今の下差川の集落が形成されました。
そして、それまで山越えで大きく南に迂回していた『山陽道』も、下差川経由で中山峠を越え、呼坂へ出る道に変更されます。

邪魔な湖はなくなったものの、この島田川の渓谷部分は岩が多い急流で、船で下るのは無理。
また、両岸が険しくて、この区間は人馬の通行も困難でした。
熊毛勘場(旧藩時代の郡役場)がある小周防(現光市)や、河口の港へ物資を運ぶには、山越えで大回りするしかなかったのです。

ここからが本題。

江戸時代の文政の頃、三丘村広末の貞昌寺にいた客僧、淡海和尚は、自ら率先して鍬を取り、村民を励まし、島田川右岸の絶壁を切り崩して、約2kmの新道を完成させます。
新道の完成により、人々は最短距離で下流側に通行できるようになりました。
また、上流より運ばれてきた物資は、この区間は駄馬によって運ばれ、下流側の筏場で川船に積み替えられて、海まで輸送されるようになります。
これにより、奥地の経済に活気をもたらし、人々は大いに恩恵を受けることとなりました。

天保元年に完成したこの道は『淡海道』と呼ばれ、使われなくなった現在も残っているというのです。
てなわけで、見に行ってきました。


前置きが長くなってしまいましたが、まずは『淡海道』へ至る道順。

下流側は高速道路によって寸断されており、わかりにくいとのこと。
よって、上流の差川地区から入ります。

三丘側からだと、島田川を渡る橋の先、下差川の変則十字路を、高水(呼坂)方面へ左折。
この道は、昔の山陽道になります。

100mほどで、右手に石垣と石仏群が見えてきます。
ここは、宗泉寺跡。
その前で道が二俣に分かれていて、矢印のように、左の細い道に下っていきます。

道なりに150mほど進むと、行き止まり。
その手前に、少し広くなった場所がありますので、ここに車を停めさせてもらいましょう。
停まっている車の先、小さな矢印のところから、下っていく道に入ると・・・

民家に出ますが、庭には入らず、矢印のように進むと

田んぼの脇を通って、島田川の川沿いに出ます。
あとは、川に沿って下流側に進み

草ボウボウになったところで、少し尻込みしましたが、この状態なのは10mほど。
木々が茂るところまで行くと、道ははっきりします。

小さな川があり、そのすぐ先にあったのが、この石組。
複雑に入り組んで、ちょっと変わった形をしています。
道を管理する番所のようなものがあったのでしょうか?

その先、右手の斜面にあるのが『淡海和尚の碑』。

『淡海道』完成の翌年、天保2年に建てられた、和尚を讃える顕彰碑のようなものでしょうか。

一緒に並ぶ石仏群も、独特の雰囲気があって素敵。

さらに先に進みます。
道は、幅が1.5m~2mぐらい。
荷物を積んだ馬が通ることを想定して、道を造ったのでしょう。

山側を削り、谷側は石を積んで土台を組み、道幅を確保したようです。
ほぼ全行程にわたり、石組みが残っていました。

大きな岩が見えてきました。
『弁慶岩』というらしい。

岩の先、少し下に降りれましたので、下から道を見上げてみます。
岩と岩の間にも、道を支える石組み。

すぐ先に小さな沢があるのですが、ここも石を高く積んで道を平坦にし、水を抜く穴がつけてあります。

さらに先に進む。

時々、道の脇に石仏が並んでいたりするのですが。

地味な写真ばっかりだ・・・

高速の高架橋が見えてきたし、そろそろ帰ろうかな・・・・。

戻る途中、道端で見たもの。
直径10cmはあろうかという、ぶっとい蔓が、人間が結んだような形になっていました。
どうやったら、こんなになるんだ?


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