野散 NOSAN 散種 野の鍵 贈与のカオスモス ラジオ・ヴォルテール

野散 のさん  野を開く鍵 贈与のカオスモス 散種 混沌ー宇宙 想像的・歴史的なもののジャンルなき収蔵庫をめざして 

チャルマーズ・ジョンソン『アメリカ帝国への逆襲』2000 『アメリカ帝国の悲劇』 2004 など1-2

2016年07月12日 | 帝国・帝国主義・軍産官報複合

        ▲ チャルマーズ・ジョンソン 『アメリカ帝国の悲劇』 2004 文藝春秋

 

 

 

チャルマーズ・ジョンソン 『アメリカ帝国の悲劇』 2004 文藝春秋 を再読しながら、沖縄と福島を考える

 

 

前日、参議院選挙の大勢 北海道・東北(青森・岩手・宮城・山形・福島)、新潟・長野・山梨 大分・沖縄の野党の勝利を確認してから就寝したのだが、横になって、目を閉じると、頭の中に映像が浮かんでくる。

北海道・東北は古代蝦夷という、ある意味で、あるところまでは律令制古代国家からの制御を免れた首長制共同体だったのだから、また沖縄は琉球国であったし、もうすこし、「国家というもの」を自由な想像力で、いかようにもありうる可能性もった歴史的存在として発想してもいいのではと思いながら眠りについた。

まだ夜明け前、前日のブログの最後の部分に、私は何行かを書き加えた。

それはこうである。

 

「 7月10日深夜ー7月11日朝 追加

日米間には、日米合同委員会という公式協議システムが機能し、毎月、日本政府のあらゆることが、米国の求めに応じ、報告・協議することになっている。形式上もはや、米国の干渉を逃れるすべはないとも言えるが・・・・・・

しかし、方法はある。

真実を伝えること、真実を暴露することだ、これほど強く逞しく、そして優しい、さらに易しい市民革命の方法はない。

真実を語る雷鳴の一撃を 市民の手で!

北海道・東北・新潟・東国、沖縄の市民は、2016年7月10日(日) 明快に、安倍傀儡政権の虚妄に対して一撃を加えた。非暴力・明晰な覚醒というどこにでもある方法を使って

光は東方から、 琉球・沖縄 から 」

 

7月11日、時々訪れている「植草一秀の『知られざる真実』」や『逝きし世の面影』などのブログを見ると、一般メディアが、安倍政権圧勝、改憲に必要な議席を確保の字が躍っているのとは違った視点を提供してくれている。

深夜、私は、南と、北から覚醒した市民革命がはじまっていると確信して眠ることができた。

 

植草一秀さんの7月11日のブログタイトルは下のようなものである。

北海道・奥羽越列藩同盟が参院選で大勝利

なかなか、日本歴史の長期的波動を掴んでいるものだと思う。

これにもとからある、琉球ー沖縄 を加えれば、隙間だらけだが、日本列島の南・北に住む市民が、国家という怪物を挟み込んだということだ。沖縄は基地、福島は核・原子力発電所で、政府に対し、もはや一歩も退くことはあるまい。

安倍内閣の現職大臣2人を撃破した1人区の、福島と沖縄は、日本近代と現代社会に潜む、「国内植民地」、「無法地帯」 だ。

2012年6月27日、原子力基本法が改正され、

原子力に関する安全性の確保については

「わが国の安全保障に資することを目的として、おこなうものとする」 原子力基本法 第二条二項

砂川裁判最高裁判決によって、安全保障に関する問題には、最高裁判所といえども、法的コントロールできないとして、基地問題が、日本国憲法の上にある何か(アメリカ)に配慮することになっている構造を暴露した。

福島原子力発電所の問題も同じだ。

原子力に関する法は、基地が、憲法で判断できないという、砂川裁判の判例の論法に従えば、日本国の最高法である憲法に準拠しないくてよいのだということになる。

日本国憲法の上の法ーアメリカ という存在

これが、これから、憲法改正問題の逐次的問題解明とは別に厳しく問い、追求していかなければならないだろう。

3.11の東日本大震災によって、日米同盟という幻想は、現に、日本内の植民地化、日本人の棄民によって成立していることを示した。

日本の原子力発電所の安全管理は、イスラエルの一企業が受注していると風のたよりに漏れ聞くが、大手のメディアはその情報について全く黙殺を決め込んでいる。一国の最重要な安全管理が必要な施設が、外国の一企業それも軍産複合体を構成する一企業に外注するなど、通常あり得ない安全管理ではないのだろうか。これは狂気の沙汰ではないだろうか。これも、国家を越えた安全保障上の都合で、管理委託に関わるものは国家機密に属するのであろうか。

 

日本の植民地的存在の危惧については、アメリカ人のアジア問題研究者チャルマーズ・ジョンソンが、沖縄を再三訪れ、外国の基地とも詳細に比較し、強い警鐘を鳴らしていた。

これは次回のブログから

 

最近、「国家に抗する社会」 「首長制社会」が長く続いた伝統を有する地域社会の人間には、DNAの構造の中に「歴史的経験」が、埋め込まれるているのではとしきりに思うようになってきた。野生のままの私がいるのだ。

「理不尽な国家システム」という、、身丈に合わない制度に抗する運動は、理にかなっているのではないかと・・・

 

 

つづく



最新の画像もっと見る