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前之園亮一 『「王賜」銘鉄剣と五世紀の日本』 古代史研究叢書7 岩田書院 2013

2016年07月30日 | 初期国家・古代遊記

           ▲前之園亮一 『「王賜」銘鉄剣と五世紀の日本』 古代史研究叢書7 岩田書院 2013年 定価9500円+税

 

前之園亮一 『「王賜」銘鉄剣と五世紀の日本』 古代史研究叢書7 岩田書院 2013年

 

このブログでは、倭の五王に関して前之園亮一の論文を2013年に紹介したことがあった。

ここ▼ 2013年4月16日 当ブログ記事

前之園 亮一 「倭の五王の通宋の開始と終焉について」2001『古代国家の政治と外交』 吉川弘文館 のこと

 

 ▲ 前之園亮一の論文「倭の五王の通宋の開始と終焉について辛酉革命説・戊午革運説から見た場合」が収録された黛弘道編 『古代国家の政治と外交』 2013年 吉川弘文館

その時は、黛弘道編 『古代国家の政治と外交』 2013年 吉川弘文館 に収録されていた「倭の五王の通宋の開始と終焉について辛酉革命説・戊午革運説から見た場合」から、倭王が宋に朝貢を開始した理由と、終焉した事由について、基礎的な理解をしたいと思っていたからである。この本には、5世紀代の倭国に関し、川崎晃の「倭王権と五世の東アジア ・・・・倭王武・百済王慶上表文と金石文・・・・・・」も収録されているので入手した記憶がある。

さて、前之園亮一の論集は、表題にある通り、五世紀の日本に焦点をあてているので、刊行から、3年ほど経っているが、古代史文献史側から見た論集としては、鈴木靖民の『倭国史の展開と東アジア』 2012年、岩波書店、とならんで、ここ5年に刊行された本の中では見逃せない論集ということになる。

前之園亮一は倭国の古代史のみならず中国5世紀代の中国古代史についても詳しく、中国王権の正当性の継承についても論じている。

倭国の外交交渉側にとって、中国の王権の政権交替の際の正当性の保持について、倭王権の維持にとっても大いに関心があったはずである。

卑弥呼・壱与以後正式外交が途絶し、また突然5世紀に至り外交交渉を再開した理由、さらに5世紀末に朝貢・派遣を停止した理由というのは、何だったのか、また、従来5世紀の王権強化の画期は、倭王武・雄略天皇の時期を指摘する研究者が多いが、前之園は、允恭天皇朝の画期性を主張している。それはどのような根拠によって提示されているのだろうか。興趣が尽きない。

この本の第Ⅲ部を中心に、論点を整理してみる。

 

 

▼ 『「王賜」銘鉄剣と五世紀の日本』 古代史研究叢書7 岩田書院  掲載論文一覧

 

 ▲ 『「王賜」銘鉄剣と五世紀の日本』 古代史研究叢書7 岩田書院  掲載論文

 

2013年4月13日のブログでは、5世紀に中国との外交交渉再開した理由、5世紀末の倭王権が対中国外交交渉を絶った事由について前之園亮一の説を要約・抄録してみたのだが、極簡単に数行でまとめれば、

高句麗は東晋に滅ぼされた南燕にも父の好太王時代朝貢していて、外交関係を有していたのだが、燕の滅亡後、また、高句麗は長寿王の時代となり、東晋への朝貢が外交上必要な状況となってきた。

好太王時代は、倭との関係も、百済・新羅関係を巡り、敵対関係にあったが、412年好太王が没し、東晋の侵攻による南燕の滅亡もあり一時的に、倭との関係も修復を図った時期であろうということ。

東晋に対する入貢時期が、中国に記された記述では413年、ほぼ同時期に高句麗と倭が東晋に朝貢している。

倭が413年東晋に遣使したのは、

① 南燕討滅によって山東経由の通路開通

② 劉裕が倭の入貢を促した (軍事クーデター政権の非正当性をカバーするため遠方からの信頼を得た朝貢というパフォーマンス ※ 当ブログ主説)

③ 好太王の死と長寿王の即位が契機となり、倭・高句麗関係が一時的に改善、山東半島経由の海路における高句麗の妨害がなくなった。

 

倭が478年を最後に外交関係を途絶するのは

① 強引な禅譲革命によって宋が滅びたことに反発、南朝の体質に違和感を強めた。

② 倭政権は、この頃、一系的な王統意識を強めはじめていて、クーデターのような軍事力で政権奪取することに正統性を認める中国王朝の王権性に矛盾・抵抗を持った。中国皇帝による冊封を受ける体制からの離脱

 

今回は、第Ⅲ部 第二章 允恭天皇の高句麗遠征と茅渟行幸伝承

 

第一節 倭王済の高句麗遠征

前園亮一は、允恭天皇は、倭の五王のなかの倭王済としている。倭王興が宋書によれば、大同6年(462)に入貢しているので、允恭天皇の在位期間は443年かその前年頃から461年までの約20年間、5世紀中葉。

済は443年の最初の遣使では、安東将軍・倭国王に叙正されたにとどまったが、451年に2回目の遣使では、使持節・都督倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王に叙正され、百済を除く朝鮮南部に対する軍事的権限を宋から認められる。倭の五王の中で、朝鮮南部の軍事的権限をが授けらてらのが明白あんおは、済が初めて。(坂元義種氏は倭王讃も朝鮮半島南部に対する軍事的権限を認められたとする)

倭王済が外交上画期的な時代。

倭の五王のなかで、高句麗遠征計が語られているのは、済・興・武の3人だけであり、讃と珍については語られていない。

武の場合は、高句麗が南進して475年百済滅亡直前にまで追いつめられた時期で、朝鮮半島の危機が目前にあった。

倭王済の時代(443ー662頃)は東アジアはどのような時代であったか。

前之園は5世紀中葉を、朝鮮半島の高句麗一強時代からの新羅の反撃の開始時代とする。

隣国百済とも連携して、高句麗に攻められた百済に新羅は救援軍を差し向けたりしている時代である。5世紀中葉は、新羅王が、以前に比べ強大化して、高句麗から自立を目指す時期。慶州に残る皇南大塚は5世紀中葉、北墳は5世紀後半の築造と推定、三国史記その他文献から推測される、新羅の独立への動きは、考古学的にも裏付けできるのではないかとする。

第二節 允恭天皇朝と新羅

450年に新羅が高句麗からの離反の動きがあり、倭・百済・新羅が高句麗を共通の敵として一致団結できる可能性が生じた。

『魏書』百済国伝の百済王余慶の上表文では、百済は472年まで、30余年間にわたり、高句麗と戦火を重ね、財・力ともに尽きたと記されている。

451年当時は百済が高句麗と激しく抗争していた時期にあたる。倭王済が、新羅の独立への動きと、朝鮮南部に対する軍事的権限の授与という二つの好条件を最大限に利用して、高句麗遠征に取りかかった可能性は少なくない。

新羅は418年に人質に出していた王族を帰国させ、倭国から離れていたが、5世紀中葉になると、倭国との関係を改め、接近するようになる。

前之園は、この時期の記紀には、筆をそろえて、新羅人が允恭天皇の病気を治したと伝えていることは注目に値すると、記している。また新羅の表記を古事記で「新良」としているのは、好意的な表記だろうとしている。

また記紀双方にも、新羅人が允恭天皇の病を治したという伝承は、允恭朝は、文化面でも新羅と親密であった事実が説話化されたものではないかとするのである。

さらに、『日本書紀』允恭天皇四十二年条には、天皇の死を伝え聞いた新羅王が、大規模な弔問使節団を派遣したと記し、天皇崩御に対し新羅の弔問使節が来朝した記事の初見、ほかには欽明・孝徳・天武天皇の死去に際して来朝記事があるにすぎない。」

「そもそも、「記紀」の新羅に関する記事・伝承は非友好的なものが大部分を占めるにも関わらず、ひとり允恭天皇の所の伝承だけはいずれも新羅に対する好意的、友好的な内容となっている。

これは、「允恭朝に、対高句麗という共通の利害に結ばれて歩み寄り、修好した事実の片鱗を伝えるもの」

第三節 允恭天皇の茅渟行幸伝承

「倭王済は、百済・新羅と連合して高句麗に対する反撃態勢を固める一方、国内でも高句麗遠征の準備を進めていったはずである。」

允恭天皇の茅渟行幸の伝承から推測できるとしている。

『日本書紀』 允恭天皇七年から十一年

「天皇は皇后忍坂大中姫の妹・弟姫(衣通郎姫)を近江から召し出して、皇居の藤原に安置した。しかし、弟姫は、皇后の嫉妬を気に病んだので、天皇は茅渟に宮殿を新築して弟姫を移し住まわせ、以後遊猟と称して、三年間に五回も大和から茅渟の弟姫のもとに行幸したという。」

この話は記紀にありふれた天皇の遊猟・恋愛譚のひとつのようにすぎないように見えるが、茅渟に幾度も行幸した伝承を有する天皇は允恭天皇以外にない。允恭天皇と大阪湾に面する茅渟地方と特別な関係にあったらしい。

允恭天皇の長男軽王子の名代として設定された軽部郷が和泉国和泉郷に存在することや、茅渟行幸伝承は、5世紀中葉¥の允恭期に茅渟地方の開発が本格的になったことを告げている。茅渟には外征に不可欠な港もあった。それは、和泉の大津である。

前之園亮一は「允恭天皇の高句麗遠征は、450年・451年頃から具体化し、461年頃の死去するまでの約10年間にわたって進められ、実際の大軍を渡海させ、高句麗と戦火を交えたと考えている」

倭王武は、上表文で、亡父の遺志を引き継いで高句麗遠征を遂行したいと述べていることから推して、「雄略朝の対外政策の一班は允恭期に起源していたように思われる。」としている。

雄略朝における大王の権力集中や国内支配の強化などの方針も、允恭期に開始され、レールが敷かれていたらしい節がある。

「画期的な時代であると評価されている雄略朝の成立の前提として、允恭天皇の時代をもっと重視してもよいのではないか」

と言うのである。

対応するような、考古学的事実は、存在するだろうか。また、倭の五王の済=允恭天皇説をとる、前之園亮一は、古墳では何を想定しているのだろうか・・・・・・・

前之園は、允恭天皇の在位期間は443年かその前年頃から461年までの約20年間とするが、それにふさわしい王陵はどこであろうか!?

ちなみに、同成社の『古墳時代の考古学 1』収録の、岸本直文が書いた「古墳編年と時期区分」論文で、古墳時代中期の古墳の編年と王の比定を試みている。彼は、允恭は454年没としている。

津堂城山古墳を応神陵 ホムタワケ クーデターにより倭国王となるとまで言っている。

また倭王珍は反正天皇とする。

大仙古墳(現仁徳陵と宮内庁が比定している古墳)が 允恭陵と言っている。岸本直文も済=允恭天皇説である。

大仙古墳は仁徳天皇陵と多くの教科書や、写真で紹介されているが、大仙古墳からは、ON46型式の須恵器が出土している。古代文献史研究者の想定と比較する際の定点となるかも知れない。考古学者の間でも、大仙古墳は仁徳陵古墳であるとする人も多くいるので、これらの説とどう総合していくのか・・・・・が課題だ。

 

日本の古代史研究者は、意外にもに6世紀以前の記述に対しては、研究から外して進めている人が多い。確かに、伝承や作為に引きずられない点では有益なのだが、すべて作為でもない史実の部分もある。また記述が極端に少ない王歴もあるのだが。また『三国史記』など、後世の述作として、日本の古代史研究者・考古学研究者は引用しない傾向がある。その点、前之園亮一は、文献の作為性、プロパガンダ性を認めつつも、古代アジアの交流史の視点にたって、中国史、辺境史も考慮しながら、朝鮮半島三国のめまぐるしく変転する倭国との外交関係までもよく押さえている研究者であると思えるのだ。

 

 

つづく



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