野散 NOSAN 散種 野の鍵 贈与のカオスモス ラジオ・ヴォルテール

野散 のさん  野を開く鍵 贈与のカオスモス 散種 混沌ー宇宙 想像的・歴史的なもののジャンルなき収蔵庫をめざして 

前之園 亮一 「倭の五王の通宋の開始と終焉について」2001『古代国家の政治と外交』 吉川弘文館 のこと

2013年04月16日 | 初期国家・古代遊記

 『古代国家の政治と外交』 2001年 吉川弘文館 前之園 亮一 「倭の五王の通宋の開始と終焉について」 2001 『古代国家の政治と外交』 2001年 吉川弘文館 に収録

なぜ倭の五王の通宋が413年の遣使に始まり、478年に終わるのか。先行する研究に加え、前之園 が、派遣の開始と、その終焉の意味をさぐる。

この論考は、倭の五王とは誰か、中国史書に記された五王と日本書紀に記された天皇の比定に直接関わるものではない。

けれども、なぜ倭がこの時代に中国南朝との交渉を開始し、集中して外交を継続していたのか、またなぜ突然のように、交渉・外交を途絶していったのかを明快に論じていて理解できるものだった。

まず 410年に劉裕が南燕を討滅した結果、山東半島経由の朝貢路が開通したのに、なぜ、ただちに東晋に遣使しないで413年に遣使したのか。

資料としては 『晋書』 巻10 、安帝紀の義煕九年条に、

 「是歳、高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師、並に方物を献ず。」

とあり、倭国と高句麗がほぼ同時に朝貢したかのように記される。

また『太平御覧』 巻九八一 、香部一、麝条所引の『義煕起居注』に

 「倭国、貂皮・人参等を献ず。詔して細笙・麝香を賜ふ。」 

とあるもの。

 

倭国とも敵対していた高句麗の広開土王が、412年に亡くなり、若い長寿王が即位し、高句麗の対東晋、対倭の政策に変化が生じたのだから という意見である。

以前高句麗は、南燕に修好し、朝貢をしていた。しかし、南燕を劉裕が滅ぼして周辺に東晋の力が及び始める。

広開土王の高句麗は南燕の朝貢国であったので、東晋からすれば、対立・敵対する国家となる。劉裕が実権を掌握する状況下で、高句麗は広開土王のもとではすぐに、入貢しにくい状況があった。

高句麗が広開土王から、若い長寿王になり、以前の敵対関係を改善できる環境となる。高句麗は南燕を宗主国とする状況から新たな、中国の宋との外交を模索する必要が生じた。また倭との敵対関係も一時的に関係改善の方に向かったとみる。

そしてその一時的友好関係は、413年から高句麗の平壌遷都の427年までと見ている。その後高句麗の南進で、倭との関係は再び悪化していく。

前之園 亮一 は、413年通宋の開始の理由

1 南燕討滅により山東半島経由の通路が確保できたこと

2 東晋の劉裕が倭に入貢を促した

3 広開土王の死と長寿王の即位が契機となり、倭・高句麗関係が一時的に改善され、山東半島経由の海路の高句麗による妨害がやんだ

ことをあげている。

 また、478年遣使とその後の派遣の廃止については

以下のように整理している。

戊午革運(478年)の年に遣使し、戊午の日に方物を献上したのは、武とその府官らが計画した演出ではないか。

戊午革運の年に遣使したことを評価され、高句麗の長寿王に比肩しえる開府儀同三司の称号を除受される望みを持っていた。

蕭道成の禅譲革命はあまりに急進かつ手軽に実行されたので、不評を買った。宋の劉裕が禅譲に44ヶ月を要したのに、蕭道成は1ヶ月で公・王にすすみ受禅して 皇帝に駆け上っている。 (下表参照)

  ▲ 前之園 亮一 「倭の五王の通宋の開始と終焉について」 65頁 『古代国家の政治と外交』 2001年 吉川弘文館  表は宮川尚志氏の 『六朝史研究』 政治経済篇の表をもとに前之園 が簡略化したとある。

『南斉書』によると、蕭道成は即位の年に鎮東大将軍に進号しているが、倭が遣使したからではない。

斉に代わって梁の武帝が502年に征東将軍に進号しても、倭は遣使しなかった。

「斉・梁・陳に倭が遣使しなかったのは、蕭道成が宋を強引に滅ぼしたことに反発し、梁・陳も急激な禅譲革命・下克上によって成立した王朝であることに反感・違和感を抱いたからであり、これが、478年を最後に遣使が終焉した一因である」

「宋・斉革命を契機にして、倭王は主体的に遣使を打ち切り、意図的に冊封体制の外へ離脱した。」

としている。

倭王の自国の王統の正統性をそこで自覚したのか、また、倭王武が倭国の王権の継続性に自信を深めていたのかわからないが、中国王朝交替の論理と、冊封体制 から、離脱する道を選択したことは間違いのないところではある。軍事クーデターや陰謀とは呼ばない 王権禅譲という独特な権力委譲のシステムは、当時の倭国の権力者・府官たちにはどのように意識されていたのだろうか。

とにかく、この王権禅譲思想が倭国内の、地方豪族の王権簒奪の根拠に使用されたのでは危険である。倭王権を支える府官たちは、讖緯思想のとめどない私的解釈の可能性を恐れ、これは倭国内で封印する必要性を持ったに違いない。

王権の正統性を確保するのに西洋・東洋問わず、様々なことが、試みられてきたし、その方法も宗教的権威を借用するなど数多くあったが、もしなにより武力が第一となれば、王権は奪取したものが、王になるということになる。身もふたもない赤裸々な歴史的現実がある。王権委譲の粉飾的な理由付けを正統性と理解されるような曲芸的解釈の嘘を発見して、下位に位置する地位のものが、それを曝く危険は常に存在する。

王権の正統性の根拠のないことを、一連の中国の斉・梁・陳の短期王朝交替劇にみた倭国は、朝貢して、将軍号を得ることに何の権威の役割を果たせないことを自覚させられたのではないのか。

倭国独自の、ある意味では尊大な、傲慢な小中華意識・小帝国意識、万世一系への依拠の自覚など、中国とは異質な、文化環境、地政学的環境も存在していたとも考えられる。

中国の冊封体制と文化・思想環境を倭に持ち込み、それに全面的に依拠することの無意味さ。その依拠する条件が倭国にはないことを王・府官たちは認識していたのだろうか。

あるいは、5世紀頃の大和政権は豪族連合という微妙なバランスの上に王を推挙する体制が存在し、武力のみによる王権簒奪の可能性は低いと見なし、またその体制が存在していたのだろうか。

 

 

 

 

 

 



最新の画像もっと見る