熊本日独協会/熊本・ハイデルベルク友の会

【事務局】Tel.090-9792-2190, e-mail: kawatasei@jcom.zaq.ne.jp

コースターのメモ その2

2017-08-13 15:46:58 | インポート
日付と名前が記されたコースターをもう一つ紹介したい。

        
21.2.1986 24時 Heidelberg 於 丸いコースターの縁に沿って整った文字で記されている。
その下のサインは読めないが、対角線上のものは恐らく Konrad Bester であろう。

再び、『熊本日独協会創立30周年記念誌’62~’93』にあたると次の記録があった。
1986年(昭和61)2月19日~21日 ハイデルベルク「日本週間」に星子会長(熊本市長)ら出席。当協会から事務局宮崎美代子を派遣。
この「日本週間」はハイデルベルク大学創立600周年を祝って開催されたもので日本各地から文化紹介や友好親善のため数多くの使節団が参加した。
熊本市からはソメイヨシノと千原さくらの苗木合わせて200本が贈られ、公会堂前でツンデル市長と星子市長による記念植樹も行われた。
この時、熊本から訪問した誰かが、コースターにサインのある2人と学生酒場あたりでHeidelberger Schlossquell Bierを飲み意気投合したに違いない。
友好の桜は順調に生育したとのことなので、花の季節にハイデルベルクを訪れ、地元の人とビールを楽しんだらいかがでしょう。
(m.s.)
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ハイデルベルク市青少年訪問団引率者の歓迎会

2017-08-11 15:24:00 | インポート
8月10日夜、ハイデルベルク市からの青少年訪問団引率者4人の歓迎懇親会が開かれた。
熊本側からは、これまでの青少年交流事業の担当者など11人が参加。
熊本市とハイデルベルク市との青少年交流事業は1993年のハイデルベルクからの派遣に始まり、翌年、熊本が派遣、以後、隔年の相互派遣が続けられてきた。関係者の話では、昨年、2016年の熊本からの派遣で相互交流は中止となり、今回の訪問団はハイデルベルク側の単独事業と位置付けられている。
引率者と10人の青少年団員は7日に大西市長を表敬後、千原台高校で生徒と交流、8日から10日まで阿蘇青年の家でのボランティアワークキャンプに参加、団員はこの夜はホームステイする。
シュテファン・ヴェルナー団長は旧知の顔ぶれが揃ったことを喜び、友情が続くことを願った。

   

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ドイツ人旅行者が入院 ー 協会員が通訳

2017-08-05 01:00:55 | インポート
国立病院機構熊本医療センターに緊急入院中のドイツ人男性のため金澤真美子さんべリンダ・プライシンガーさんの2人がボランティア通訳を務めた。男性は、7月31日午後、救急車で搬送されたもので、金澤さんは当日の夜、プライシンガーさんは1日の昼、通訳を担当した。病院スタッフと患者の意思疎通を円滑にするだけでなく、書類作成の手伝い、ドイツ本国の保険医と病院機構側の医師との電話のやり取りの手助けなど仕事は広範囲に及んだ。病院機構からの依頼をお二人に取り次いだのは、熊本市国際交流振興事業団で、同事業団は、医療通訳制度の整備に取り組んでいる。
男性は、7月17日からの日本ツアー中の15名の一人として新幹線で熊本駅に到着、市電と徒歩で市内中心部のホテルまで来て転倒、入院を余儀なくされるという災難に見舞われた。ドイツ語での手伝いは大きな救いとなったに違いない。

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コースターのメモ

2017-08-01 15:49:16 | インポート
前回、「両面印刷で、しかもそれぞれの面のデザインが異なる」と決めこんでいたドイツのコースターにも例外があったことに触れた。
それらのコースターの中の2枚の裏面に“ 18.Sep.1984 ”の日付と名前が記されたものがあるのに気づいた。
     
いつ、どこでのコースターだろうかと由来をたどってみた。

まず、日付の1984年9月18日に近い記述が『熊本日独協会30周年記念誌‘62~‘93』の沿革にあった。
  1984年(昭和59)
  9月15日大久保副会長(※1)を団長とするロータリー研究グループ訪独(10月15日まで。)


次に、『国際ロータリー273地区・186地区研究グループ交換報告』(※2)の〔日程〕には、コースターのメモとぴったり一致する記録があった。
  9月18日 20:50 ルザティア・ライプツィヒ学生団の集会へ

この日、研究グループは186地区の世話人クリストフ・ケンプ博士の案内で最初の訪問地ハイデルベルクを離れ空路で西ベルリンを訪れ、ケンプ博士が学ばれたライプツィヒ大学のルザティア学生団の集会に参加したのである。
ケンプ博士は、1937-38年、交換留学生として京都帝国大学で学び、兵役、ソ連での抑留生活を経験、1956―79年、財団法人日独文化研究所所長、京都文学館長をつとめたのち帰国、1991年から初代のハイデルベルクー熊本友の会の会長として両市の友好都市締結に貢献された方である。
この夜は、実直な博士が50年を経てもなおルザテイア・ライプツィヒ学生団の後輩会員と席を同じくする喜びで顔を紅くし、旧制第5高等学校でドール先生からドイツ語を教わった大久保団長と共にいくつもの学生歌を熱唱された。

手持ちの『ドイツ学生の歌 ― 大全集』には解説書が付いているが、その中でも学生団(Corps)が取り上げられている。(※3)
      
掲載された岡野圭一氏所有の先輩用の帽子の上面には日本の花押のようなRの装飾文字とh!の刺繍がある。Rは岡野氏が所属するラインシュタイン団の頭文字と思われる。9月18日の日付があるコースターの4人の名前の横にも同じく何かの装飾文字と!が印されている。恐らくルザティア学生団員を意味するサインなのだろう。

研究グループ交換報告書では、9月18日、旧西ベルリンの閑静な一角にあったルザティア・ライプツィヒ学生団の館での集会後、研究グループは「24時にホテル戻った」となっている。しかし、その後があるらしい。
翌朝、メンバーの一人が仲間に指を4本立てているのを見つけケンプ博士が「その4は何ですか」と尋ねられた。とっさに「夕べはジョッキ4杯飲んだのです」と答えた。5人の研究員の中でも若手に属する彼ともう一人がルザテイア学生団の現役学生と示し合わせてホテル近くの店で落ち合いビールを飲んだのだ。4は「朝の4時まで飲んだ」の意味であった。
学生団とビール。マイヤー=フェルスター作の『アルト・ハイデルベルク』を今一度、読んでみたくなった。(m.s.)

(※1)
(株)フンドーダイ会長の大久保圭一郎氏。熊本日独協会第6代会長(平成9年6月~平成11年5月)。ロータリアンとしても長く活動、83年、84年次はすでに273地区ガバナー経験者(パストガバナー)であった。
30周年記念誌には、次の記述がある。
1966年7月25日 会員大久保圭一郎(フンドーダイ醤油社長)はハイデルベルク大学主催の講習会出席の途上、同市市長とライン・ネッカーツァイトング紙へ石坂会長(注 石坂繁熊本市長)からの親善メッセージを伝達。
熊本市がハイデルベルク市と友好都市になるために努力された多くの先人たちの活動の一例である。

(※2)
273地区は大分・熊本・宮崎・鹿児島の4県、186地区は西ドイツの中西部:ハイデルベルク・マインツ・ザールブリュッケンなどのロータリークラブが所属。研究グループ交換プログラム( GSE;グーループスタディエクスチェンジ)は国際ロータリーの奨学プログラムの一つで、チームはガバナー代理のロータリアンを団長とし35歳未満の職業人から選抜された5名の団員で構成され、約1カ月間、先方の地区で文化、歴史、生活などに触れるほか自らの職業上のテーマを研究する。83年には186地区からクリストフ・ケンプ博士を団長とする研究グループが九州4県の273地区を訪れた。

(※3)
解説書に、この記事と関連する事柄を見つけたので補足したい。

〇 「青春の歌」と題する文の著者、東山魁夷は30周年記念誌ではケンプ博士との交換留学生とされている。
〇 独文学者の高橋健二は、「昔、ハイデルベルク」でと題し、ハイデルベルク留学時代に「赤雄牛屋」というビアホールでドイツの学生とビアジョッキをテーブルの上でこすり合わせて歌い、気分は満点だったと記している。 
〇 文芸評論家の中野孝次の「古きよきアルトハイデルベルク」には、大正末年から敗戦まで熊本五高で教えていたドル先生が古きよきハイデルベルク大学の出身であり“古調「野ばら」だの「おおタンネンバウム」だの「「生を楽しめ フロイト・オイヒ・デス・レーベンス」だの、老先生が低い声でしみじみと歌ってくれた歌が、いまでも記憶に灼きついている”と大久保団長にも通じる話が述べられている。




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コースターの独日比較

2017-07-29 18:41:41 | インポート
ドイツでビールを飲んだら記念にコースターを持ち帰ることにしていた。
その多くはなじみのスタンドの天井に飾られた。
やがて他の客も各地のコースターを持ち寄り天井さらには壁も色彩豊かなモザイク模様になった。
数年前、マスターが引退し店も閉じられたが、あれらのコースターはどうなったのだろう。
それはともかく、ドイツのコースターの多様性には心ひかれるとともに気になっていることがある。
    どうしてドイツのコースターは両面にしかも違うデザインが印刷されているのか

逆に言うと、どうして日本のコースターは片面印刷なのか

両面に違うデザインで印刷するとコストがかかるだろうに、ドイツ人は多くの情報を伝えることの方を重視するからだろうか。
先日、ビールを飲みながらこの疑問を話題にしたら、独文のある教授は、この先生の飄々とした語り口は再現が難しいが、およそ次のように述べられた。
「それは、ドイツ人が怠け者で、テーブルにサッサっと配るとき、どっちの面が出てもいいように、そういうことなんですよ。」
たしかに、両面印刷だと裏表を気にしなくてもよいが。すると、細部にも心配りをする日本のサービスでは整然と表が配れるように片面印刷になっているわけか。
ここでは、コストではなく効率が問題とされている。
はたしてどうなのか。今度はドイツで飲食ないし印刷業界の人に尋ねてみようと思っている。

ところが、その前にKeine Regel ohne Ausnahme との諺どおり、「ドイツのコースターは両面のデザインが異なる印刷である」にも「はずれ」があったのだ。
手持ちのコースターの表・裏を念のために見比べていったら異端児がデテキタノデス。
下の写真は、左側が表面のみの印刷で裏は日本と同じように白地のもの、右側が両面に同じデザインが印刷されたもの。
        

すると、これからは次のように問題提議しなけれならないのだろうか・・・?
どうしてドイツのほとんどのコースターは両面にしかも違うデザインが印刷されているのか
(m.s.)
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