きっと自分流の手入れが間違っているのだろうと思うが、以前より「椿」の花付きが悪くなった・・・勉強不足の当然な結果と言うべき?
終わった!終わった!終わったぁ~
と叫び声を上げたいところだが、もう少し修正(確認)すべき点を残して(でも、1時間ぐらいで完成できる)今期の作業が終了した。
この作業、慣れている積りであっても、ホント、年々、辛くなるのは,ひとえに、視力の衰えだ(脳細胞の崩壊は棚に上げて)と確信している。
視力の異常な変化を初めて感じたのは59歳半ば、まだ、会社勤務をしていた時だった。
その時点では、出来れば65歳か70歳頃まで仕事を続ける意思を持っていたし、TV番組で目の異常で命に係わる事があるなんていう情報も耳にしていたので、早速、東京のとある有名眼科で診察を受けた。
初診の受付をするのに電話で予約し、当日、予約しているのに、散々、待たされて漸く診察を受け、医師からは何の説明もなく、イラ立ちもあって「命に別状は無いですね」と問うと、その医師は「目が見えなくて死んだ人はいない」と宣ったのだ。
当然、椅子を蹴って立ち去り(たい気持ちを持って・・・という意味で)、もう、その病院には2度と行くことは無かった。
と言っても心配はあるので、その後、知人の薦める眼科で診察を受けたところ、「黄斑上膜」という病名で、手術でしか治らないとの説明だった。
そんな時、母と同居せねばならない状況(故郷にリターン)となって仕事を続けることが困難となった。
60歳で定年退職し故郷に戻るが、母との同居を優先出来る仕事場は見つからず職探しは断念、手術までして視力を矯正する(まず、不自由でなかったし・・・)意欲が薄れてしまったのだ。
どんな理由があったにしろ、手術を止めたのは私自身の意志であり、その選択に後悔はないが、65歳を超えたあたりから、眼鏡がなければ文字の判読が困難となり、新聞も本も、読むのが面倒で(病気の所為ばかりでも無いけれど)、当然、事務的なマニュアル書(文字が細かい)を読まねばならない仕事も面倒になったという訳だ。
私の仕事を引き継いでくれた姪が、今年は、専門的な内容でも理解が早くなっており、補助的な助けは、まだ、必要だろうが、確実に自立の方向に向いていることが見えて来た。
今年の仕事としても、先の見通しとしても、漸く「解放」される実感が得られた事で、我が視力も、過度な労働から解放され日も近いかも・・・ね。