半月前、まだ青々としていた稲だったが、もう、刈り取りを始めている
帰郷した時、我が家では、母が、数羽の鶏を飼っていた。
もう、卵を産む鶏はなく、ただ、餌を与えているだけだったし、その上、小屋の掃除には、結構、手間が掛かかり、母の手では出来ない状態だった。
この鶏たちが、最後を迎えるまでは、私が責任をもって飼育するから、もう、新しい鶏を飼うのは止めようという、母との約束だったのが、一方的に、10羽のニューフェイスが登場となった。
そこで、定例の大喧嘩をしたものの、目の前にいる鶏をどうする手立ても無く、結局、飼う事になってしまった・・・母は自分が見るというが、勿論、世話をするのは私だ。
彼女等(鶏です)は、十分、役目を果たしてくれ、我が家では食べきれない程の卵を、毎日、生産してくれた。
それに対しては、心から感謝するが、小屋の清掃とその処理をするのは肉体労働で、母は気に掛けないし、誰も援助はしてくれないし、大変でしたね、本当に・・・。
だから、何がなんでも、これが最後だと決心していた。
その内、だんだんと卵の数が減って、1羽、また1羽と亡くなって行った。
そして、最後の1羽になって、どの位経ったのだろうか、近頃、余り動かないなと思っていたが・・・今朝、鶏小屋に様子を見に行くと、静かに横たわっていた。
「1羽だけで寂しかっただろうな」という思いと、自身、寂しさが心を掠めた。
そして、「これで、母に対する役目が、一つ、終わった」という安堵感が湧いて来た。
鶏とは一緒に出来ないと思うが、母を送る時、きっと、こんな気持ち(寂しさと安堵感)になるのだろうなと感じた、予行演習のような日になった。
畦道に咲く野草は、ひっそりとしていながら、結構、自己主張している