私事ですが、私の小学生の頃は家に電話がある家庭は皆無でした。街中ならいざ知らず、田舎のことですから伝達手段は農協が運営する有線に限られていました。それだけ生活圏が限られていて、その中だけで日々の生活が成り立っていたということです。
有線も後にはダイヤル式に変わりましたが、最初の頃は受話器を取ると交換が出るので「〇〇回線の✖✖番」というように指定して繋いでもらっていました。つまり、電話よりも数段アナログでした。その分、コミュニケーション力が必要とされていたのです。学校行事予定の連絡や修学旅行の状況、そして災害などの際の注意喚起も有線放送が担っていた時代です。有線のない家庭には情報が行き渡りませんでした。田舎ならではの村八分状態です。
中学生の頃、初めて電話(電電公社から借りる黒電話です)が家につきました。当時は町内の何件かで同一回線を使用する為、電話番号が違っていても同一回線の他の家が電話を使用していると話し中になりました。その為、事情を知らない方からは「あの家はいつ架けても話し中。随分長電話だね」とあらぬ疑いをかけられる始末です。
時が移りポケベルが登場した頃、入力をダイヤル式の電話でやっていましたね。よくそんなことができていたものだと今では感心しています。それほど使いこなしていたのですね。
そんな黒電話生活が何十年か続いた後に固定電話も今風のものに変わりました。
そして、20世紀が終焉を迎えようとしていた頃、携帯電話なる代物が登場しました。そこからの技術革新は凄まじいものがありましたね。それこそ、made in Japan のフィーチャーフォン(俗にいうガラケー)は他国を圧倒する技術力と開発力で見事な進化を遂げました。それがガラケーの運命を皮肉な方向へと導いてしまったのですが。
この日本独自の技術力にとても太刀打ちできないと判断した諸外国は、スマートフォンなる出来損ないに活路を見出し、日本製のガラケーを市場から締め出す卑怯極まりない作戦に打って出ました。そして、今に至るスマホの世界観が出来上がっていきました。
かく言う私も、最終局面までガラケーに拘り続けましたが、遂にサービス停止の事態を迎え、スマホにするかガラホにするかを迷った挙句、現在のアンドロイドに落ち着いた次第です。使っていればそれなりに利点はありますが、結局何かを作成したり、それこそブログを書いたりするためには、もうPCに頼るしかありません。これがガラケーなら、もっと楽に使えたのにという思いは確かにあります。それは、ここでの主題ではありません。
「現代の若者は公衆電話を架けられない」 という話を耳にすることはありませんか? 固定電話に慣れていなければ、確かにあり得ると思います。そして、知らない番号から架かってくる電話に出られないとか、知らない番号に電話を架けられないとか、そういう事態も起こっているようです。もっと深刻なのは公衆電話を探しても中々見つからないという現状です。これでは有事の際に連絡手段を奪われてしまうという危惧があります。
これらは、携帯電話が出現して以降の30年ぐらいで顕著になってきたコミュニケーション能力の減退に繋がっているように感じます。つまり、人と話をしながら物事を進めて行ったり、物事の伝達手段を会話で行ったりという能力部分の衰退です。
私はアンドロイドに変更しても、絶対的信念がありましてLINEは絶対に使わないということです。簡単便利は人を退化させ、馬鹿を作り出すものです。
携帯電話と言われる代物なのですから、電話してなんぼだと考えるのが既に昭和脳なのかもしれませんが、人と人とのコミュニケーションは第一に会話だと考えているものからすれば、伝達手段は電話かせめて長文のメールまでにしてほしい。
携帯電話の弊害たちが人々を蝕んで、再生不能となる前に何とかしてほしいと感じる今日この頃です。
「ダイヤル回して手を止めた・・」は歴史の一頁になってしまったのでしょうか? これでは、若者は恋に落ちないのでは?
失礼いたしました。