いせ九条の会

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城山三郎さんの言葉/山崎孝

2007-03-24 | ご投稿
城山三郎さんが3月22日に亡くなられました。私が持っている城山三郎さんの著書「指揮官たちの特攻/幸福は花びらのごとく」には「戦争を書くのはつらい。書き残さないのは、もっとつらい。今はただ、鎮魂の思いだ」と記しています。

1945年8月15日、第五航空艦隊指令長官 宇垣纏中将は、海軍総隊司令長官から「対ソ及び対沖縄積極攻撃中止」の命令を受けていたのにもかかわらず、中津留大尉に特攻攻撃を命じ、宇垣纏中将も攻撃隊に加わった。中津留大尉は海軍総隊司令長官の攻撃中止命令を知らないまま、理不尽な命令により出撃することになります。

「指揮官たちの特攻」の中で城山三郎さんは次のように書いています。

(前略・改行省略)大分からの機中、宇垣と中津留との間に伝声管を通して、どんな会話があったのか、わからない。ただ、敵機も敵艦船の姿が全く無いことから、中津留は疑問を感じ、その結果、戦争が終わり、「積極攻撃中止」命令が出ていたことを知る。同時に宇垣も考え直し、キャンプ突入を止めさせたとの推理も成り立つが、そうであれば、危険を冒してまで接近する必要は無い。そのとき、天地の暗闇の中で、ただ一ヶ所、煌々と明かりがついた泊地が見えてきた。泊地は、中津留隊の第4の攻撃目標であり、宇垣は突入を命ずる。もはや議論の余裕は無く、中津留は突入電を打たせ、突入すると見せて、寸前、左へ旋回する。突入が普通より長かったという司令部通信部室の証言が、それを裏付ける。編隊での高等飛行で中津留に鍛え上げられた部下は、指揮官機の意図を瞬間に読み取り、もはや方向を変える余裕の無いまま、機を引き起こし、キャンプの先へ――というのが、現地に立っての私の感想である。(中略)泊地が、第4の攻撃目標ということで特攻機が2機続けて突っ込んでいたら――。断交の通告無しに真珠湾を攻撃した日本は、今度は戦争終結後に沖縄の米軍基地へ突入したことになる。騙まし討ちに始り、騙まし討ちに終わる日本は、世界中の非難を浴び、軍はもちろん、あれほど護持しようとした皇室もまた吹き飛ぶことになったかも知れない。(引用以上)

城山三郎さんは、中津留大尉のお墓をお参りした時の情景と思いを記しています。(前略・改行省略)《まわりには様々な花が咲き、鶯、目白、ひよどりなどが、高く低く鳴き続けていた。七十余年を生きてきた私は、そうした中に立っていて、ふと思った。二十歳前後までの人生の幸福とは、花びらのように可愛く、また、はかない。その一方、かけがえのない人を失った悲しみは強く、また永い。花びらのような幸福は、花びらよりも早く散り、枯れ枝の悲しみだけが永く永く残る。それが、戦争というものではなかろうか――と。(以下略)》

3月24日の「天声人語」は城山三郎さんを取り上げて最後の部分は次のように記しています。▼「旗」という詩がある。「旗振るな/旗を振らすな/旗伏せろ/旗たため/……ひとみなひとり/ひとりには/ひとつの命」(城山三郎全集 新潮社)▼旗一つで人をあおり、絡めとるようにみえる組織的な動きには、死の直前まで反対の声をあげ続けた。「戦争で得たものものは憲法だけだ」とも述べたともいう。それが、城山さんを貫く思いであり、書き残そうとしてきたことの本質だったのかも知れない。(以上)

城山三郎さんは戦死者を「ひとりには/ひとつの命」という視点で見つめています。戦死者を賛美して、再び国家のために命を捧げることを求める方向の政治を行う立場とは正反対です。

城山三郎さんは「戦争で得たものものは憲法だけだ」と述べていますが、憲法は日本が世界に向かって宣言した「不戦の誓い」であり、世界と日本で生きる人たちの一人一人の命を大切にするとした理念です。憲法を守り生かすことは、組織的に命が失われることを防ごうとすることと密接に結びつきます。