一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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今日のことば(94) ― 橋川文三

2006-02-03 08:05:19 | Quotation
「自由民権運動以降の日本ナショナリズムは、それがしばしば指摘されるように、あまりにも速やかにその中に民権的契機を喪失し、侵略的国権主義の方向のみを肥大させたといわれることが事実であったにせよ、そのことは、それ自体としていえば、日本ナショナリズムの健全さでも、不健全さでもなく、本来、近代ナショナリズムの原型そのものの中に、そのような要因があったのである。ルソーのナショナリズム理論が、後に自由民主主義の政治形態を支えるよりもむしろ民主主義の全体主義化(トタリタリアニズム)を促進したといわれる意味において、日本ナショナリズムの異常形態も、それなりにある理論的必然性をはらんでいた」
(『日本浪漫派批判序説』)

橋川文三(はしかわ・ぶんぞう、1922 - 83)
評論家、思想史家。東京帝国大学法学部卒業後、編集者生活を経て、1970(昭和45年明治大学教授に就く。1960(昭和35)年の『日本浪漫派批判序説』で注目される。昭和精神史を中心として、思想、歴史、文学と幅広い発言がある。

日本浪漫派の名前は、保田與重郎(やすだ・よじゅうろう、1910 - 81) を中心として、1935(昭和10)年から1938(昭和13)年まで発行された雑誌からつけられた。メンバーには亀井勝一郎や中谷孝雄らを初めとして、雑誌『青い花』の同人太宰治、檀一雄、山岸外史らが加わる(太宰は、途中で保田と別れる)。

思想的には、「近代」そのものへの批判から「日本の伝統への回帰を叫び、次第に国粋主義的傾向を強めた」とされる。橋川のことばを借りれば「耽美的パトリオティズム」ということになり、「美的に帰一すべき共同体」を目指す文学運動ということになる。

さて、上記引用であるが、玄洋社の歴史に見られるように、国権ナショナリズムが民権ナショナリズムから生まれたことは、橋川の指摘どおりである。
ーー玄洋社の母体となった向陽義塾(向陽社)は、自由民権運動の結社で、「わが福岡こそは憲政発祥の地であった」と頭山満が言うように、一時は土佐の立志社を凌ぐ勢いであった。それが、1890(明治23)年の第1回総選挙を契機に、国権主義に転向したといわれる。

ナショナリズムそのものが、自らのアイデンティティの根拠を国家へ預けてしまうものであるから、国家に必要なものが「民権」ではなく「国権」であると判断すれば、「民権的契機を喪失し、侵略的国権主義の方向のみを肥大させ」るのは、転向でも何でもなく、「理論的必然性」があったと言えるだろう。

話を『日本浪漫派批判序説』に戻すと、
「保田(與重郎)や小林(秀雄)が『戦争イデオローグ』としてもっとも成功することができたのは、戦争という政治的極限形態の過酷さに対して、日本の伝統思想のうち、唯一つ、上述(=「ある政治的現実の形成はそれが形成されおわった瞬間に、そのまま永遠の過去として、歴史として美化されることになる」)の意味での『美意識』のみがこれを耐え忍ぶことを可能ならしめたからである。いかなる現実もそれが『昨日』となり『思い出』となる時は美しい」
との一節は、今日にどのような有効性を持っているのだろうか。

「靖国神社」は、今でも「美化」の装置として、九段坂上に厳然として存在しているのではないのか(戦死者を「平和のための貴い犠牲者」と表現するのも同様)。

参考資料 橋川文三『日本浪漫派批判序説』(講談社)
     『橋川文三著作集』(筑摩書房)