一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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ナショナリズムの応用問題 その9

2006-02-16 10:08:20 | Opinion
(承前)
「先生(櫻園)は攘夷を主として滅幕を主とせず」
という。
これは「倒幕のために攘夷を唱えた」多くの維新の志士たちとは、まったく逆の発想である(「尊王攘夷というのはネ。ただ幕府を倒す口実よ。攘夷攘夷といって他の者の士気を鼓舞するばかりじゃ」と、鳥羽伏見の戦い直前に、まだ攘夷を文字通り受け取っていた有馬藤太に対して、西郷が述べている)。

何のための攘夷か、については前回述べた。
「彼(櫻園)には徹底抗戦の意志の確立が先決なのである。たとえば長州なり、薩摩なりが国を焼土として抗戦すれば、かならずあとに続くものがあるはずだし、国民戦争とはただそのような先駆的な行動によってのみ始まるというのである。」(渡辺京二『神風連とその時代』)
繰り返せば、それが「日本人が独立自尊の民族たりうるかどうか」を決定する。

また、それは志士たちの志と力量とが問われることにもなる。
薩英戦争で「(薩摩藩主が)領土を割譲して(英国と)講和したとしよう。(中略)国民戦争は薩摩侯がおりた時点からほんとうに始まるのである。そのような国民戦争は英国海兵を錦江湾にたたきこむだけでなく、封建領主支配を薩隅二州の全域にわたって崩壊させずにはおかない。そのような国民戦争の条件がどこにあるかというのか。条件は革命者が作る。櫻園は当時の志士たちに、このような国民攘夷戦争の意味を体得した革命者であれ、政治プランを操作する運動屋たることなかれと求めたのである。」(渡辺、前掲書)
この点において、櫻園と「僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」と言った松陰とは、きわめて近い場所にいる。
また、「身分階級を問わない国民義勇軍」(松本健一『日本の近代1 開国・維新』)としての奇兵隊創設にも、櫻園的な「国民戦争」を戦うための軍隊という意図があった(高杉晋作は、言うまでもなく、吉田松陰の弟子である)。
「(櫻園の国民攘夷戦争論は)独立自恃の精神過程を通ることなしに日本人は国際社会にのりだして行けないのではないか、という切迫した危惧に裏打ちされている。櫻園は焼土戦争の灰燼の中から、ヨーロッパ文明との接触にたえうる国民的なエートスが誕生することだけを期待しているのである。」(渡辺、前掲書)

明治政府は、なし崩し的な開国(建前攘夷、本音開国)を行なったため、このようなエートス創出なしに「国民国家」を作らねばならなかった。
そこに、国民の統合機能を果させるべく、国家神道を中核においた近代天皇制を生んでしまうことにもなったのである。

(続く)


松本健一
『日本の近代1 開国・維新1853~1871』
中央公論社
定価:本体2,400円(税別)
ISBN4124901011