一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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ナショナリズムの応用問題 その14

2006-02-24 09:53:30 | Opinion
一方、蘭学寮の開設以前、1844(弘化1)年、藩には「火術方」が設けられ、西洋砲術の研究に公式に着手し始めている。
ついで、1850(嘉永3)年1月には、本島藤太夫という藩士が、江川太郎左衛門のもとに派遣され、同年6月には、早くも大砲鋳造のための反射炉が設置されることが決定されている(翌年12月には反射炉が完成、青銅製の大砲を鋳造し始めた。これが、日本最初の築地の反射炉である)。

驚くことに、これらの軍事科学技術を実施するにおいて、外国人の直接の力を借りてはいない。彼ら技術者は、すべて西欧の書物から、その知識を学びとり、実行にあたったのである。

集められたメンバーは、本島以下7人で「御鋳立方七賢人」と呼ばれた。
彼らは、西洋砲術家の本島以外に、蘭学者・洋学者はもちろんのこと、和算家・鋳物師・刀匠も含まれ、江戸時代末期における日本の在来科学技術のレベルの高さを思わせるものがある。

1854(嘉永7)年からは、青銅鋳造砲に代わり、鉄製の大砲が次々と生産され出す(1861(文久1)から、ここはライフル銃製造工場となり、維新戦争における佐賀藩の主要小銃の生産を支えることになる)。
またこのほか、67(慶応3)年には、当時最新式の大砲、アームストロング砲も試作されるにいたる。

これらの広い意味での軍事費は、膨大な金額に及んだ。一説によれば、築地の反射炉建設の当初予算は18万3千両余、実際には、この予算の他に約5万8千両が費やされたという。それをまかなえたのも、直正たちが藩政改革で産業奨励を行ったからであった。
その意味で、佐賀藩は明治政府の「富国強兵」政策を先取りしていた。

特にヨーロッパで珍重される陶磁器は、国内の内戦状態で混乱した中国に、有田・伊万里がとって代わり、藩の専売制の下での輸出が急速に延びていった。また、植樹に努めたハゼの木からとれる白蝋の生産も順調に伸びていき、軍事費をまかなう生産量に達した。
たとえば、1857~58(安政4~5)年に輸入したオランダ軍艦2隻の購入には、白蝋の代金が当てられている。

「薩長土肥」(薩摩・長州・土佐・肥前)と、佐賀藩が、戊辰戦争で活躍した4藩の1つに数えられたのも、以上のべたような、藩政改革とそれに続く幕末の近代化があったからなのである。