明治5(1872)年撮影と思われる束帯姿の明治天皇
前回述べたように、反幕派にとって、現実的にも理念的にも、天皇は権威であるばかりでなく権力(特に軍事最高指揮官)でもなければならなかった。
これに対し孝明天皇は、
「三条はじめ暴烈の所置、深く痛心の次第、いささかも朕の了簡を採用せず。その上、言上もなく浪士輩と申合せ、勝手次第の所置多端、表には朝威を相立て候などと申候へども、真実の朕の趣意相立てず、誠に我儘、下より出る叡慮のみ。」(『孝明記』文久三年八月二十四日付)と、かねてから思い、〈八・一八のクーデター〉にも暗黙の了解を与えていたのだから、その死に暗殺の噂が絶えなかったのも宜なるかな。
――この辺り、孝明天皇の攘夷感情、すなわち
「外国の事情や何か一向御承知ない。昔からあれは禽獣だとか何とかいふやうなことが、ただお耳にはいつて居るから、どうもさういふ者のはいつて来るのは厭(いや)だとおつしやるのだ。煎じ詰めた話が、犬猫と一緒に居るのは厭だとおつしゃるのだ」(慶喜の証言。『昔夢会筆記』より)ということとは無関係で、長州派などが
〈攘夷戦争→攘夷親征→親征倒幕〉
へと、孝明天皇の意志
「さればといつて今戦争も厭だ。どうか一つあれ(外国人)を遠ざけてしまひたい」(同上)を無視して路線をエスカレートしていったことへの反撥である。
これに対し、京都守護職の会津藩主松平容保を深し信頼していたのが、後の会津藩の悲劇にもつながる。
それはさておき、明治天皇を擁立した反幕派は、天皇権威を知らしめることと、天皇権力の確立に努めていく。
そのためには、従来のような女官に囲まれた宮廷生活を改めねばならない。
慶応4(1868)年(9月8日に明治と改元)閏4月1日に、駐日公使パークスの信任状奉呈式に臨んだアーネスト・サトウの見た明治天皇は、次のような姿形をしていた。
「天皇(ミカド)が起立されると、その目のあたりからお顔の上方まで隠れて見えなくなった(一風斎註・席に掛けられた御簾によって)。しかし動かれるたびに、わたしにはお顔がよく見えた。多分化粧しておられたのだろうが、色が白かった。口の恰好はよくなく、医者のいう突顎(プラグナサス)であったが、大体から見て顔の輪郭はととのっていた。眉毛はそられて、その1インチ上の方に描き眉がしてあった。衣装は、うしろにたれた長い黒色のゆるやかな肩衣(ケープ)に、マントのような長袍(ガーメント)、それに紫色のゆるやかな長袴(トラウザー)であった。」(坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』)
続く