一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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今日のことば(97) ― 中江兆民

2006-02-14 08:38:34 | Quotation
「隣国内訌(ないこう)あるも妄(みだ)りに兵を挙げてこれを伐(う)たず。いはんやその小弱の国の如きは宜しく容(い)れてこれを愛し、それをして徐々に進歩の途に向はしむべし。外交の道唯これあるのみ。」
(「論外交」)

中江兆民(なかえ・ちょうみん、1847 - 1901)
明治時代の思想家、ジャーナリスト。高知生まれ。幼名は竹馬、後に篤介 (とくすけ)。1871(明治4)年、司法省からフランスに留学、1874(明治7)年に帰国、仏学塾を開く。1875(明治8)年、東京外国語学校校長、元老院権少書記官などに就く。1881(明治14)年、西園寺公望らと「東洋自由新聞」を発刊、主筆となる。翌年「政理叢談」を発行、ルソーの『民約訳解』(『社会契約論』の部分訳)を刊行するなど自由主義思想の啓蒙に努め、「東洋のルソー」と称せられる。1887(明治20)年、『三酔人経綸問答』を執筆。1890(明治23)年、第1回衆議院開設に当り、大阪から議員に当選するが、土佐派の一部が予算案成立に関して政府と妥協、その裏切りに憤慨し、国会を「無血虫の陳列場」と言い放って辞職。1897(明治30)年、国民党を組織、1900(明治33)年国民同盟会に参加。1900(明治33)年、ガンの宣告を受け『一年有半』『続一年有半』を執筆、1901(明治34)年、大阪にて食道ガンで病死。門人には幸徳秋水がいる。

『三酔人経綸問答』を読んでも分るように、中江兆民という人物、そう一筋縄ではいかない。
穏健な現実主義の「南海先生」は、等身大の兆民ではない。
実際には、非武装主義の「洋学紳士」のように理想主義的な面も強く持っていたし、軍国主義的で大陸への侵略を説く「豪傑君」の立場がありうることも分っていた(晩年には、国民党結成、国民同盟会への参加など、国家主義的傾向を見せた)。
しかし、それらの相矛盾するかのような全てを包摂しつつ、かつ国会開設前後の実際の行論は、舌鋒鋭く当路を批判する(「保安条例」で、治安妨害のおそれありとして、皇居外3里の外に追放などの処分もされる)。

上記引用は、朝鮮の「壬午軍乱」(1882年、首都漢城(現ソウル)で起きた兵士の反乱事件。政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた)に際しての兆民の発言。

一方、明治政府がとった行動は、陸軍歩兵1個大隊、軍艦4隻、海軍陸戦隊を花房公使に率いさせ、朝鮮に派遣する、というもの。
これらの軍事力を背景にして、朝鮮国王・大院君と交渉を図る。
結果、済物浦条約を締結、賠償金50万円、日本軍の首都駐留を含む要求を飲ませたが、清国との対立を高め、日清戦争へとつながることとなった。

「いずれにせよ19世紀末の日本は英米から脅威を受けたのではなく、むしろ彼らのバックアップで、朝鮮・清国に対して、英米にも利益をもたらす当時の国際法的秩序である不平等条約を押しつけようとしたのです。そのような大勢に抗しようとした清国や朝鮮は、旧来の体制を維持しようとしました。しかし『台湾出兵』や江華島事件等の経験から、しだいに日本がむしろ英米やフランスへの追随者であることをさとり、強い警戒心をもつようになったのは無理からぬことでした。」(岩井忠熊『大陸侵略は避け難い道だったのか―近代日本の選択』)

兆民の主張したのは、日本が「英米やフランスの追随者であること」を止め、清国や朝鮮とともに自主独立の路線を貫くことであった(その上での連携も、考慮内にあっただろう)。
発言の時期は違うものの、
「支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず。正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ」
という『脱亜論』と、兆民は、まったく違った観点に立っていたのである。

外交問題はさておき、兆民の本質が、革命的民主主義者か穏健な立憲君主主義者かは、いまだに評価が定まらない。
けれども、兆民がそれらの論議を聞けば、
「あしはナカエニストやき」
と言い捨てて呵々大笑するであろう。

参考資料 『中江兆民評論集』(岩波書店)
     『日本の名著36 中江兆民』(中央公論社)