一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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ナショナリズムの応用問題 その4

2006-02-05 10:56:07 | Opinion
ナショナリズムを考える場合、それは自己の同一性(アイデンティティー)を何に求めるか、という心理の問題として捉えるのが、最も分りやすいし、説明しやすい。

その心理の核には、前回まで述べたように、「感情としての愛国心」=「パトリオティズム」があったとしても、こと「イデオロギーとしての愛国心」=「ナショナリズム」には、恣意的な要素が含まれてくる。

まず第一に、想定される「国家」の範囲はどこまでか。

近代以降を考えた場合でも、日本国家の範囲は拡大したり、縮小したりする。
それをしも、自らのアイデンティーの根拠とするのか、しないのか。
「すでに朝鮮総督寺内正毅は、三・一独立運動以前に『朝鮮ハ帝国ノ疆土』であり『属邦』ではなく、また朝鮮人は『帝国ノ臣民』であって『隷民』ではないと説いていた。」(姜尚中『反ナショナリズム』)
この発言に、朝鮮人に対して、日本帝国のナショナリズムを押し付けるという、植民地政策的な側面はあったにしても、理論的には、「新日本」=「旧日本+旧朝鮮」となる。
それでは日本人は朝鮮半島を含めた「新日本」に、アイデンティーの根拠を求めたかどうか。

また、
「喜田貞吉は、韓国併合の年に発表された『韓国の併合と国史』のなかで『併合』を『明治時代の一大盛事』と祝賀し、『併合』によって『両国の正しき太古の本体に復(かえ)つた』とまで唱えた。それは、『日本民族』を『天津神と国津神とを祖神と仰ぐ両民族の、完全なる融合同化からできた複合民族とみな」(姜、前掲書)
したが、ここから出てくるのは、「アジア民族」なるまったくの架空の観念にアイデンティティーを求める「大アジア主義」なる別種のナショナリズムであろう。

政治家や学者ではなく、一般国民の場合はどうか。

台湾が日本帝国の植民地だった時代、領土において最も標高の高い山は「新高山」(玉山:標高3,952m)であった。にもかかわらず、小学生は「富士は日本一の山」と歌って、何ら不思議には思わなかった。

そこで、根拠とすべきは「領土」ではなく、「歴史と伝統」であるとするナショナリズムが「国民国家」にとって意味を持ってくる。
「文化ナショナリズム」である。

(続く)


姜尚中(カン サンジュン)
『反ナショナリズム』
講談社プラスアルファ文庫
定価:本体879円(税込)
ISBN4062569469