一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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『徳川慶喜―将軍家の明治維新 増補版』を読む。

2006-02-04 02:19:07 | Book Review
書評の本来は、その内容が主となるべきであろうが、ここではあえて著者松浦玲の書き方(歴史叙述のしかたと文章)について述べよう。

というのも、一般的な歴史書(学術書というよりは入門書に近いもの。新書判のイメージを想起)のそれとは、かなり毛色が違っているからであり、実際に事実に関する文章(広い意味でのノン・フィクション)を書く際に参考になるだろうから。

パラパラとめくってアット・ランダムに選ぶと、このような文章(内容は,この際、置いておく)。
「そんなにまでして慶喜は、将軍になる必要があったのか。 
 必要はあった。おそらく慶喜は、将軍位につく以外に自分の能力を発揮する方法はないと、そう確信していただろう。」
疑問に対して、「必要はあった」と一文でまず解答を与える。
この呼吸が、著者独特なもの。
同様に、
「では、京都朝廷の一部か。そうともいえない。彼らは、あくまで『武家』であって、公卿ではない。」
「このあとがむつかしい。慶喜に処分権はあるのか。ない、というのが、江戸の意見だった。」
という文章もあった。

疑問―解答という形ではないが、比較的短い叙述を積み重ねていく、という手法も眼に付く。
「解説しておくと、三家の子供は、世子が徳川を称するほかはすべて松平姓を名乗ることになっていた。それで『松平七郎麿』である。これが一橋を継ぐと、三卿の家の当主だから『徳川と可披称候』である。徳川七郎麿となったわけだ。」
以上の文章は、いくらでもくだくだしくすることはできるが、ここまですっきりさせるのは難しい。

もう一つの文章的な特徴は、口語的なくだけた表現を入れ込むこと。
これが好きか、嫌いかは趣味の問題になるが、文章がいきいきすることに間違いない。
「久世大和は、いや、まだ渡来はしておりませんと、サエない。」
「将軍がわざわざ京都まで出向いた目標は、実はこれだったんだよと、示さねばならない。」
「こういう場合には、慶喜は、がんばれる。」
と、この例は数多く見受けられる。

以上のような文章表現によって、複雑な内容でも頭に入り易く、歴史というお固い内容にも親しみがもてるというメリットが出てくる。

これは現在(改訂版刊行当時。'04年時点では著述業)、桃山学院大学教授という職にはあるものの、長年著述業としてやったきたという著者の経歴によるものだろう。

松浦玲
『徳川慶喜―将軍家の明治維新 増補版』
中公新書
定価:本体720円(税別)
ISBN4121903978