一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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今日のことば(95) ― 吉田秀和

2006-02-07 04:07:11 | Quotation
「マーラーとドビュッシーは、同じ一つの時間に生きていたのであるということ、つまり音楽家たちは、どんな生き方をし、どんな仕事の仕方をした人間でも、すべて、その前の人、同時代の人、後から来た人からまったく独立に、別々の〈時間〉を与えられ、その中で勝手に仕事をしたのではないのである。」
(「新しい音楽の芽」。『音楽展望』1971・4・15)

吉田秀和(よしだ・ひでかず、1913 - )
音楽評論家。東京帝国大学文学部仏文科卒。1946(昭和21)年、雑誌「音楽芸術」に『モーツァルト』を発表、評論活動を開始する。1948(昭和23)年、斎藤秀雄らと「子供のための音楽教室」を開設し、初代室長に就任する。この教室は後に、桐朋学園音楽科に発展するが、一期生には、指揮者の小沢征爾、ピアニストの中村紘子らがいる。1957(昭和32)年、作曲家の柴田南雄らと二十世紀音楽研究所を設立、所長に就き現代音楽の育成、紹介の活動にも貢献する。2005(平成17)年には『吉田秀和全集』(全24巻。白水社刊)が完結した。

まずは、高峰のみをつないでいく奇妙な音楽史が、この国には存在する。
学校教育で行われている学習では、バッハがいて、ハイドン、モーツァルト、そしてベートーヴェンが、音楽室の壁に掛けられた肖像画のように独自に存在し、その間の関係はまるでなかったかのような音楽史が教えられる。
せいぜいが、それぞれの音楽家たちと、その様式のみをセットで覚えさせるくらいだろうか(バッハは「バロック音楽」、ベートーヴェンは「古典派」と線で結ばせる)。

もう1つの学習機会である「世界史」においても、あたかも文化史は、その時代の政治史や社会史との流れとは無関係に存在するかのような扱いである(ベートーヴェンとフランス革命との関係は、交響曲〈英雄〉とナポレオンとのエピソードで触れられるのみ。ハイドンやモーツァルトの音楽活動と、貴族社会やドイツの領邦国家との関係などは、まったく扱われない)。

そのようなパースペクティブに欠ける音楽史のことを、まずは上記引用は述べているのだろう。
また、その後には、
「音楽家たちは、いつの間にか自分の領分をつくりあげ、その主となると、あとはまわりを気にはしても、それと対決しながら、みんなが集まって生きている一つの時間の中での自分の位置、意味を明らかにしようとする習慣もなければ、その努力もしない。」
と、音楽界の現状についても述べる(1970年代だけのことか?)。

その原因を、吉田は、
「近代日本の音楽に、ベートーヴェンやヴァーグナーにあたる〈古典〉、つまり規範でもあれば偉大な障害でもあるものがない」
ことに見出す。
本来なら、近世文化から近代文化が連続してつながっているならば、当然のこと存在すべき〈古典〉が、明治維新の〈文明開化〉(西洋化=近代化)で断ち切られてしまったために、日本には存在していないのだ。

ここからは、吉田の発言からは、離れる。
〈古典〉が存在しないということは、ひるがえって考えると、その代わりに妙な〈伝統〉が「復活」することがありうる(規範が存在しないのだから、適当なものがでっち上げられる可能性が大)。
それは、近代になって(あるいは近世に)〈創られた伝統〉を、あたかも脱歴史的な太古から存在するかのように取り扱うということである。

〈歴史〉と〈伝統〉ということばが提示された場合には、充分に吟味してかかるべきであろう。

参考資料 吉田秀和『音楽 展望と批評』(朝日新聞社)
     『吉田秀和全集』(白水社)